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東京地方裁判所 昭和60年(合わ)104号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実の要旨

被告人は、

第一ほか多数の者と共謀の上、東京都千代田区永田町一丁目一一番二三号財団法人自由民主会館所有の建物(鉄筋コンクリート造り九階建て)を時限式火炎放射装置を用いて焼燬しようと企て、昭和五九年九月一九日午後七時三五分ころ、右火炎放射装置を荷台に各設置した保冷車型普通貨物自動車二台を同建物北側に隣接する飲食店南甫園駐車場に駐車させ、右各自動車から、時限装置によって、ボンベ内の高圧ガスをガソリン及び灯油の混合油入りのボンベ内に流入させ、そのガス圧によりノズルから右混合油を噴出させてこれに点火し、その火炎を同建物に向けて放射して火を放ち、よって、田中誠三らが現在する同建物の三階から七階までのうち約五二三平方メートルを焼燬し、

第二ほか一名と共謀の上、同日午後七時二〇分過ぎころから午後八時ころまでの間、同都港区元赤坂二丁目二番二一号先から同都千代田区六番町一三番地一先に至る間の路上において、普通貨物自動車の前・後部に、厚さ約一ミリメートルのアルミ板を金型でプレスして文字数字部分を打ち出し、白色塗料を塗布し、文字数字部分に緑色塗料を塗布して偽造した足立四五ひ一四二〇の自動車登録番号標各一枚を着装した右普通貨物自動車を走行させ、もって、偽造にかかる自動車登録番号標を使用し

たものである。

二  証拠上明らかな事実

第一本件放火事件の発生

一  本件火災の発生

昭和五九年九月一九日午後七時三五分ころ、東京都千代田区永田町一丁目一一番三〇号中華料理店「南甫園」駐車場に駐車中の二台の自動車から、同所南側に隣接する財団法人自由民主会館所有の建物(同区永田町一丁目一一番二三号所在)に向けて火炎が放射された。右自動車は、いずれも保冷車型普通貨物自動車三菱キャンターであり、各荷台に火炎放射装置が積載されていた。

二  財団法人自由民主会館の建物の構造等

右建物は、鉄筋コンクリート造り、地上九階、地下三階の構造で、延面積は合計一万五五七〇平方メートルである。同建物は、自由民主党本部(以下、「自民党本部」という。)が事務所として使用している。

本件発生当時、同建物内には同財団法人警備課員田中誠三ら職員多数(九名)が現在していた。

三  焼燬状況

前記の火災は右建物北側の七階部分にまで達し、窓ガラス等が破壊され、三階から七階までの会議室等の内部が合計約五二三平方メートルにわたって焼燬された。

四  消火状況等

本件火災は、これを目撃した者らによって直ちに一一〇番通報及び一一九番通報がなされ、受報した東京消防庁は多数の消防用自動車等を出動させて同日午後七時四一分ころから消火活動に従事した結果、同日午後一〇時一七分ころ鎮火した。

五  本件による被害額

右火災による被害額は、約一〇億一七〇〇万円に上った。

第二本件犯行が革命的共産主義者同盟全国委員会(以下、「中核派」という。)所属の構成員らによるものであること

中核派は、その機関紙「前進」第一二〇五号(昭和五九年一〇月八日付)及び「武装」第一二四号(同年一二月発行)において、「九・一九自民党本部強襲戦に大勝利」などの見出しの下に、中核派革命軍と称する同派の組織が本件放火を敢行した旨の記事を掲載し、本件が中核派の犯行であることを自認し宣伝した。

第三本件各犯行の準備

本件各犯行に当たり、中核派構成員らは、次のような準備行為を行った。

一  本件犯行に供された自動車三台の窃取

まず、昭和五九年七月二〇日午後六時ころから同年八月四日午前五時三〇分ころまでの間に、東京都狛江市中和泉一丁目二〇番三号飯田方駐車場において、飯田信雄所有の普通貨物自動車トヨタライトエース一台を、次いで同月一九日午後零時ころから同月二〇日午後三時ころまでの間に、埼玉県深谷市大字上野台八〇二番地埼玉北部市民生協において、同生協所有の前記三菱キャンター一台(1.25トン)を、さらに、同月二五日午前一時ころから同月二七日午前九時三〇分ころまでの間に、群馬県前橋市平和町一丁目三番八号ニワノ駐車場において、早川富士雄所有の前記三菱キャンター一台(二トン)を、各窃取した。

二  時限式火炎放射装置の作製

時限式火炎放射装置を作製して前記三菱キャンター二台の荷台にそれぞれ装備した。

同装備は、五〇キロガスボンベ三本、電磁弁二個、圧力調整器一個等を一組としたものであり、これが各車両に二組ずつ積載されていた。

時限式火炎放射装置の機構は、次のとおりである。

時限装置としてマイクロタイマーを使用し、あらかじめセットした時刻が到来すると電磁弁が開き、一本のガスボンベ内に充填された高圧ガスが圧力調整器により約六気圧に調整されて、ガソリン及び灯油の混合油の入った二本のガスボンベ内に流入する。すると、そのガス圧により右の混合油が各ボンベから接続しているホース内に押し出され、その先端のノズル(放射筒)に達して放射される。右ノズル部分には発熱線が附設されており、その発熱により燃焼媒介物を介してノズルから放射中の混合油に点火する。このため、混合油が火炎となって放射されるものである。

タイマーへの入力は、自動車の助手席等に秘匿されたスイッチボックスのボタンを押すことによって行うものとなっている。

三  時限式発火装置の設置

火炎放射装置を積載した自動車及び逃走用自動車を犯行後焼燬して証拠隠滅を図るため、時限式発火装置三基を作製して各自動車に設置した。

同装置は、前同様マイクロタイマーを使用した時限装置を作動させ、あらかじめセットした時刻が到来すると、テルミット(酸化第二鉄及びアルミニウムを主体とする混合粉末)内の点火具が発熱して発火し、その火力によってポリ容器を溶融してこれに在中のガソリンに着火して炎上させる構造となっている。

四  自動車登録番号標の偽造

盗難車両であることを隠蔽するため、自動車登録番号標(以下、「ナンバープレート」という。)を偽造した上、前記各自動車三台の前・後部に装着した。

ナンバープレートの偽造は、次のように行われた。

まず、縁取り部分、文字及び数字部分を形取った金型を鉄板で作り、次にこれを使用し、正規のナンバープレートと同様規格のアルミ板にプレスして「縁取り」、「文字」、「数字」の各部分を打ち出す。続いて、白色塗料で吹き塗装したのち、文字・数字部分を緑色塗料で塗装して作製した。

前記三菱キャンター(1.25トンのもの)には「足立一一に三七―二〇」の番号の、前記三菱キャンター(二トンのもの)には「足立一一に一六―〇八」の番号の、前記トヨタライトエースには「足立四五ひ一四―二〇」の番号の各偽造ナンバープレートを装着した。

五  自動車検査証の偽造

前記自動車三台を運行中、検問等による自動車の窃取等の事実の発覚を免れるため、自動車検査証を偽造した。

その偽造は、右偽造にかかるナンバープレート番号と同一番号の自動車(実在)の「登録事項等証明書」を入手し、その証明書を改ざんする方法によった。

第四本件当日の犯行状況

一  南甫園駐車場への進入

中核派構成員数名は、昭和五九年九月一九日午後七時三〇分ころ、前記時限式火炎放射装置を積載した三菱キャンター二台を、前記南甫園駐車場に進入させ、財団法人自由民主会館の建物に向けて駐車した。

右三菱キャンター二台は、その運転席側荷台部分に日本通運の宅急便「ペリカン便」ののぼり旗を貼付してペリカン便の配達車を装っていた。

二  南甫園支配人にペリカン便による配達を装ったことなど

右南甫園駐車場には、放火実行犯である中核派構成員五、六名が立ち入り、いずれも白色ヘルメットあるいは緑色帽子を着用し、さらに、深緑色の作業衣様の着衣上下を着用してペリカン便の配達員を装っていた。

同人らは、同駐車場に進入するとほぼ同時に火炎放射装置の時限装置を作動させるとともに、同人らの一名が同園支配人木下茂に対し、紙ばさみに挟んだ伝票を示しながら「宅急便ですが、ここは千代田区永田町一丁目一一番三〇号南甫園様ですね」「たち吉の陶器をお届けに来ました」「保険付の荷物なので印鑑が必要です」などと申し向けた。

右木下が宅急便と誤信して店内に印鑑を取りに戻った直後の午後七時三一分ころ、右五、六名の実行犯人は一団となってその場から逃走し、午後七時三二、三分ころ、同区平河町二丁目六番四号所在の日本海運会館路上に至った。

第五逃走用自動車の運行経路等

一  逃走用自動車の使用

前記トヨタライトエースは放火実行犯人の逃走用等として使用された。同自動車は、白色ビニールテープで「高松運輸」と形取ったものをその運転席及び助手席側各ドアに透明ビニールテープで貼付して運送会社の自動車を装っていた。

二  放火実行犯人の乗車

放火実行犯人五、六名は、前記のとおり同日午後七時三二、三分ころ日本海運会館横路上に到着したが、そのうち少なくとも二、三名は、同所で待ち受けていた右トヨタライトエースに乗車し、直ちに同所を出発した。

三  同自動車のハイツ六番町駐車場への放置

右トヨタライトエースは、同日午後八時ころ、同区六番町一三番地一所在のハイツ六番町駐車場に進入し、同所に放置された。

四  同自動車焼燬事件の発生

同日午後八時五分ころ、右トヨタライトエースに積載されていた時限式発火装置が作動して同車は発火炎上したが、付近住民の消火活動により車体の一部等を焼燬したに止まった。なお、同車内には放火実行犯人らが本件犯行時に着用していたと思われる白色ヘルメット、作業上衣、ズボン、深緑色の帽子及び深緑色の着衣等が遺留されていた。

検察官は、以上の事実を前提にした上、逃走用車両(トヨタライトエース)に関するYの目撃証言、時限式火炎放射装置の組成部品である電磁弁、圧力調整器の購入に関するT及びNの各目撃証言、電磁弁等の購入の際記載された「物品受領書」の「小島」、「坂田」についての筆跡鑑定、不審購入者の発見を目的とした電磁弁等の販売先に関する捜査、中核派革命軍の組織、活動の実態等に関するいわゆる革命軍立証、被告人主張のアリバイに関する反証を中心として、立証活動を展開してきたので、順次検討を加える。

なお、以下においては、証人の供述については証言及び公判調書中の供述部分を問わず証言又は供述と表示して公判回数を証書については「甲一」、「弁一」のようにして証拠番号を、証拠物(押収番号は昭和六一年押第一〇三一号)については「符一」のようにして符号を、それぞれ付記する。

三  Y証言の信用性

第一逃走車両関係

検察官は、被告人の本件公訴事実第一(現住建造物等放火)の犯行への関与ないし共謀の根拠及び公訴事実第二(道路運送車両法違反)の実行行為として、昭和五九年九月一九日、被告人が、放火実行犯人の逃走用の普通貨物自動車(トヨタライトエース)を犯行現場付近に準備し、逃走させる行為を担当したと主張する。

右トヨタライトエースについて、Dは、「昭和五九年九月一九日は、迎賓館の外堀通り、東門でバス型の輸送車の運転席で突発事案発生に備え警備していた。不審な車両がいないか、外堀通りを見ていた。午後七時二五分過ぎころ、青っぽい色の、運転席ドアに高松運輸という白文字が書かれたボンゴ型の車を見た。高松運輸については、以前勤務した巣鴨に高松物産という暴力団関係の会社があったので、高松というのが印象にある。午後七時二五分にNHKの車とハイヤーが東門から出て、少し経ってからなので、具体的には、二五、六分である。ボンゴ車は、四谷から来て、赤坂見附方向への車線を走行していた。信号で止まった際に見た。運転席は男だった記憶だが、人相は分からない。助手席については人影があったが、男か女かも分からない。司法警察員作成の昭和五九年一〇月一六日付実況見分調書(〈証拠〉)添付の写真4の車両は、自分の目撃した車両と同一である」旨の証言をしている(第一五回)。

右供述は、高松運輸の文字の点は、自己の個人的体験を前提とした記憶の根拠があり、それを具体的に説明していて、信用でき、目撃した時刻については、NHKの車とハイヤーが東門を出た時刻を東門の衛士に確認した上で証言しており、十分信用に値する。

したがって、右D証言及び前記証拠上明らかな事実によれば、本件放火実行犯人の逃走用車両であるトヨタライトエースは、事件発生の前である午後七時二五、六分ころ、迎賓館の東門付近を赤坂見附方向に通過したことを認めることができる。

第二Y証言の信用性の検討

検察官は、右の逃走用自動車である青色トヨタライトエースを犯行現場付近まで事前に準備する過程で、被告人が関与した旨主張し、証人Yは、犯行直前に逃走車両の助手席にいた男を目撃し、その男は被告人と同一人物だと思う旨の供述をしているので、この供述の信用性について検討する。

一  Y証言の要旨

証人Yは、当時警視庁赤坂警察署勤務の三七歳の警察官(巡査長)で、昭和五九年九月一九日は、東宮御所警備派出所の前で立番の勤務についていた者であるが、第一七回ないし第二三回公判期日において、要旨次のとおり供述している。

「昭和五九年九月一九日には、東宮御所警備派出所での立番勤務についていた。同日午後六時三〇分から一時間の休憩に入ったが、相勤者の植木巡査が二時間続けて勤務についたので、普通交代するときの五分前より早めの一〇分弱前すなわち午後七時二一分過ぎか二一、二分ころ交代して派出所前で立番勤務についたが、交代直後の七時二二、三分ころ青色トヨタライトエースを目撃した。

最初に見たとき、本件車両は、権田原交差点の信濃町寄りに設けられた横断歩道の手前で、真中の車線寄りか歩道側の車線で止まっていたように思う。立番していた派出所のたたき(〈証拠〉添付図面記載の甲点)からの距離は大体一四から一五メートルあったと思う。止まっていた車両は、斜めでなかったので、信濃町方向から来た車だと思った。

本件車両に気がついた理由は、明治記念館の入口の関係で信濃町寄りに設けられている停止線より先に出てきて横断歩道の手前で止まったから、信号無視する車ではないかと思ったためである。この車両は、青色の箱型のライトバンであった。動き出してからその車種がトヨタライトエースと分かった。

この車両は、その後走り始めて左折したが、助手席の男が制服姿で立っている私の方を見ている様子だったので、左折途中の同B点付近から私もよく見ていた。

横断歩道の手前(同A点)から左折途中のB点間で助手席の男の輪郭は大体分かり、男の人だと分かったが、顔がはっきり見えたのは、B点以後である。B点から左折出口横断歩道上(同C点)まで、ゆっくり三、四回ちらっちらっと左斜めに首から上を交番の方に向けた。左斜めというのは二〇度ないし三〇度くらいで、両目は見えたと思う。甲点から横顔と、ちらちら見たときの左斜め前の顔を見たが、正面からは見ていない。頭部の輪郭は一応全部上の方まで見え、顔は窓枠にはかかっていなかった。口は、動かさず、結んでいた。

助手席の男の人は、年齢が三〇代後半から四〇代前半、顔の輪郭は、左斜めから見た状態が四角っぽく、いわゆる角張ったというか、そんな感じで、眼鏡は掛けていなかったように思う。目、眉毛、鼻、口などは、これといった特徴というか目が垂れ目だとか鼻がでっかいとか、そんな特徴はなかった。肉付きは普通で、皮膚の色は、普通の感じだった。髪の毛は、長めで耳までかぶさって、ぼさぼさして、油っ気がなかったような感じだった。前髪は顔に垂れていないような感じで、顔が見え、額が広い感じを受けた。帽子はかぶっていない。服装は、段ボール箱の色のようなカーキ色のジャンパー様の運送店の作業衣のような服装だった。

動き始めて、私の目の前辺りまで来る間は、車と助手席の男の顔というより車のドアに書いてあった字を見ていた。車両の助手席のドアに白い文字で「高松運輸」と書いてあり、電話番号もなく珍しいなと思った。それは、漢字でかなり大きく、レタリング調のような、文字を図案化したような印象的な字体で書いてあった。その段階ではまだ、不審とは思わなかった。

助手席の男が様子を窺うような感じを受けたので、私は不審に感じた。しかし、ゲリラに使われるとは、具体的には思わなかった。「高松運輸」と書いてあったので、普通の運送屋の車かなということで見送った。追いかけるほどの不審車両でないと最終的に判断し、ナンバーの確認をしようとした記憶もなく、不審車両としてのメモ等は残していない。

交通量は、普段と比べて閑散としていた。青山一丁目からの車も数台あり、迎賓館側にも、二、三台止まっていた記憶である。交代したときに雨は降っていなかったので、かっぱを着ないで立番した。もやはなかった。道路の路面は濡れていた。道路に光が反射するようなことはなかった。

昭和五九年一〇月六日に警察で写真帳(〈証拠〉)を見せられて、被告人の写真(番号四一)を選択した。昭和六〇年一月一七日に検察庁で写真面割りをし、写真帳(〈証拠〉)から被告人の写真(番号一三四)を選択し、同年五月四日、五日に被告人の面通しをした。髪の長さや形を含めた頭の格好から目撃した人に似ていると言った。目撃した人物とそっくりだと思った。

法廷(第一七回公判、昭和六一年七月二四日)にいる被告人は、髪の長さ、四角い顔、全体的印象から当日見た男と同一人物だと思う」

二  信用性の検討

犯人と被告人との同一性に関する目撃供述については、従来から、一般に人の人相、身体的特徴等が他と明確に区別するほどの特異性に乏しいことなどからくる観察の不正確さ、目撃した人物の特徴の記憶を他の体験と切り離して独立した状態で保持することの困難性、わずかな暗示、誘導によって起こりかねない識別の不正確さなどにかんがみ、その信用性の評価においては慎重に検討すべきであると指摘されている。

そこで、以下、証人Yの目撃供述の信用性について、観察の正確性及び記憶の正確性という両面から、すなわち、前者については、目撃現場の明るさ、目撃距離等の客観的な条件を前提とした視認可能性のほか、目撃継続時間、視線の向き、目撃対象の可動性、目撃の角度、目撃者の視力、能力、心理状態(目撃の有意性・意識性)等の種々の目撃条件、後者については、識別供述における特徴の表現の詳細度、目撃と供述までの時間的隔たり、記憶の回復過程、写真面割手続の適否、同手続等からの影響、他の目撃供述からの影響等を考慮しつつ種々の角度から、順次検討することとする。

1  目撃条件

(一)  目撃現場の明るさ等―視認可能性

Y証人の目撃したという時刻は、証言によれば、午後七時二二、三分ころであり、日没後であるため、目撃当時、目撃に十分な明るさがあったかどうか、客観的に視認可能であったかが、まず、検討されなければならない。

当日の天候は、東京管区気象台作成の地上気象観測日原簿写(〈証拠〉)、同気象台技術課作成の地上気象観測装置記録紙写(弁一七六)及び東京都建設局河川部計画課作成の毎時雨量月表写(弁一七七)によれば、天気概況は終日雨で、一八時の降水量は〇ミリであるが、一九時には0.5ミリ、二〇時にも0.5ミリと断続的に雨が降る天気であった。なお、前記のとおり迎賓館東門で警備に当たっていたDは、当日午後七時二五、六分ころの天候は、小雨で、傘をさす人もいるし、ささない人もいるというような状況であった旨証言している(第一五回)。

当裁判所は、目撃当時の現場の明るさ、目撃の状況を検証するため、Y証人に対する反対尋問の期日の間である昭和六一年九月一九日に、目撃現場の検証を行っているので、その検証の結果を検討する。

当裁判所の右検証調書及び検証現場における証人Yの供述によれば、検証は、昭和六一年九月一九日午後七時から午後九時五分まで、東京都港区元赤坂二丁目二番二一号赤坂警察署東宮御所警備派出所前路上及びその付近において、交通を遮断して行われた。

この検証の目的は、現場の状況、特に、証人Yが目撃したという当時の状況を同人の指示に基づいて、できる限り再現し、ライトエースの助手席に同乗した人物の人相等の識別がどの程度可能な状況にあるかを明らかにしようとしたものである。

この検証の実施方法については、まず、証人Yが同人が目撃した位置と証言した甲点(検証調書添付の別紙見取図第二図のイ点)、その時のライトエースの位置(公判供述でのA、B、C点)を現場で指示説明させて、これらを現地に確定した。イ点(派出所の前)からA点(信濃町駅側横断歩道の手前)までは15.8メートル、B点(右横断歩道と安珍坂側横断歩道との間)までは11.0メートル、C点(安珍坂側横断歩道を越えたところ)までは7.9メートル、A点からB点までは9.8メートル、B点からC点までは13.6メートルであった。

光源は、権田原交差点に設置された街路灯(水銀灯)(一)ないし(四)のほか、信号灯、派出所の電灯及び明治記念館の看板灯である。右検証に先立ち、裁判所による事実調の結果、同派出所前の街路灯(一)(検証調書添付の別紙見取図第二図参照)の電球が昭和六一年九月一七日正午ころ新品と交換されていることが判明したので、この作業をした東照興業株式会社社員をして交換前の電球に交換させた。なお、検証時は、終始曇天で、かつ現場付近の交通はすべて遮断されたため、月及び通行車両の光源はなかった。

次いで、実験車両の運転車(警察官)に証人Yの指示する速度を感得させるため予備走行を行い、最後に実験車両の助手席に人を乗車させて本走行を行い、その者の人相等の識別状況を検した。実験車両は、青色の昭和五三年型トヨタライトエース(地面から助手席側窓枠下端までの高さ約1.16メートル)で、助手席ドアには実物を模した「高松運輸」のラベルを貼付し、前照燈は下向きに点灯して走行した。

実験車両の助手席には、裁判所から見えないところに待機していた検察事務官に、証人Yの選択した作業服上衣を着用させて乗車させた。同事務官にはA点からC点まで走行する間に、首を四、五回派出所方向に向けるように伝えた。助手席側窓の開き具合は、助手席の窓を少しずつ上げ下げし、Yがストップと言った位置にした。

また、六回行った予備走行の際の証人Yの車両速度についての指示は、A点からC点までの所要時間につき、11.6(二人目の計測者によれば11.5)秒の時は、「ちょっと早い」、13.3(同13.1)秒の時は「スタートが早い、AB間が早い」、14.9(同15.1)秒の時は「AB間が少し遅いが全体的な流れはよい」と指摘し、本走行の際は、14.6ないし14.7秒の速度であり、Yの指示説明は「少し遅い」であった。

このような条件の下で、派出所前のたたき(イ点)に立ち、A点に停止している実験車両の助手席の人物、及び、A点からB点を通過し、C点に至る同車両の助手席の人物を注視し、助手席の人物の人相等の識別状況を検するという方法で行った。

検証の結果、助手席の人物について、少年や老人ではない男性であること、顔を三、四回派出所方向に向けたこと、顔の輪郭が丸型で大きいこと、顔立ちに鼻が特に高いといったような際立った特徴のないこと、眼鏡を掛けていないこと、髪が顔に垂れ下がっていないこと、上衣は薄い色のものであることは識別できたが、目、鼻、口等の顔立ちの特徴、頭部の状況、年齢の見当、上衣の種別とその色については、右以上の識別は困難であった。

「高松運輸」の文字は、A点停止中も、また、A点からB点を通過し、C点まで走行中もこれに注意を向ければ識別できた。

なお、裁判官三名の視力は、いずれも眼鏡による矯正後の視力で1.0であった。

検証調書に添付の写真は、裁判所の印象になるべく近い写真を、撮影した写真の中から選んで貼ったものであることが、記録上認められる(〈証拠〉中の裁判長の発言)。

これに対し、検察官E外二名作成の実況見分調書(〈証拠〉)によれば、検察官による実況見分が、捜査段階の昭和六〇年五月四日午後七時二〇分から午後八時二五分まで、東宮御所警備派出所前路上及びその付近において、Yの立会いを得た上、昭和五三年型緑色トヨタライトエースを模擬車両として行われている。なお、当日の気象状況は、晴であった。

その際のYの指示説明としては、立番勤務した位置(甲点)及びA点、B点、C点の説明は公判供述と同じであり、目撃した距離は、甲―A間が15.9メートル、甲―B間が11.35メートル、甲―C間が8.25メートルであった。また、A点からB点までは9.9メートル、B点からC点までは14.10メートルで、Yが指示した車両の速度は、A点からC点までの所要時間が一一秒というものであった。

この実況見分の結果は、A点に停車中及びB、Cの各点を走行中の助手席同乗担当補助者の顔は、甲点にいる検察官である見分官から判別できたというものである。

ところで、目撃供述において、目撃対象が目撃者にとって既知の人物であるか、未知の人物であるかによって、その識別にかなりの違いがあるという点は従来から指摘されているところ、本件ではYが目撃した人物は未知の人物であったのであるから、Yの目撃供述の信用性の検討に当たっては、目撃した人物にどのような具体的な特徴があるかについて、どの程度識別、記憶できるかが検証されなければならない。

しかし、同実況見分調書には、顔が判別できたかどうかの結果の記載があるのみであり、同実況見分を実施した検察官である証人Eは、「助手席の男は、確認できた。顔形、眼鏡を掛けていたこと、目、鼻、耳、口の格好、髪の毛も一部は窓枠の桟にかかった感じだが、大体分かった」旨供述する(第二四回)が、判別の根拠となる具体的特徴を明らかにしていない。この点について、同証言(第二四回、第二五回)によれば、検察官による実況見分の際は、裁判所がした検証の際のように、全く知らない人を乗せて、その特徴がどの程度識別できるかという観点でなく、見分官にとって既知の人物を乗せて、その人の顔形がどの程度見えるかという観点で実施し、その結果、写真面割りができる程度に把握識別できるかどうかということを目的として行われたものであり、したがって、立ち会った検察官相互の事後の合議の際にも、見えた個々の部分がどうであったかという観点からは議論した形跡は窺われない。結局、顔形の特徴の識別の程度については、この実況見分調書からは、再確認することができない。また、同実況見分は、助手席窓を全部開けて実施しているが、Yは「ガラス窓がどの程度開いていたか覚えておらず、はっきり覚えているのはガラス窓が顔にかかっていなかった点である」旨供述しており、全部開けた状態だけで実況見分を実施するのは、目撃条件の設定としては的確とはいえない。

したがって、助手席の男の顔の個々の特徴が視認できたかどうかの点については、検察官作成の実況見分調書は特に意味を持ち得ないというべきである。

ところで、Yは、裁判所による検証後の公判期日(第二三回)における証言において、検証時と目撃当日を比較すると、「①検証時は派出所前に人が数名立っていたので、派出所の光が遮られて暗かった、②目撃当日は、交通は少なかったが、車が走っていたので、交差点付近は、迎賓館方向からの車のライトで明るく感じた、③目撃当日は、夏ころに外苑東通りを含めた安珍坂通りの方の街路樹などがすごく剪定されていて、一帯に明るいという感じだった、派出所前の街路樹以外に付近の街路樹も剪定されていた」旨供述する。

証人Yの指摘する①の点については、裁判所の検証調書によれば、派出所のたたきに数名の人物が立っても、派出所の入口、窓等の大きさからしてその光がすべて遮られるわけではなく、また、現場の光源は、派出所の電灯のほか、より目撃車両に近い街路灯を含む複数の街路灯、看板灯、信号灯があったのであり、仮に派出所から漏れる光が一部遮られていたとしても、それほどの差が出るとは思われない。

右②の点については、証人Yは、「当日の交通量は、普段と比べて閑散としており、青山一丁目からの車も数台あり、迎賓館側にも、二、三台止まっていた記憶である」(第二三回)と供述するにとどまり、迎賓館方向からの車のライトの状況がどうであったか現認していないのであり、また、これによりA点ないしC点における明るさにそれほど差が出るものとは思えない上、むしろ、道路は断続的に降る雨で濡れていたのであるから、ライトがそれに反射して視覚を妨げる方向で働いていた疑いもある(〈証拠〉)。

右③の点については、証人Y自らも、光の照射状況は、検証時と剪定後でとくに違わないとも述べている。また、派出所前の街路樹は、検証調書添付の写真七、八によれば、葉がほとんど残されていない程度に剪定されていることが認められるところ、Y証言によると、目撃当時の方が検証時よりももう少し街路樹の葉があったというのであるから、少なくとも、街路樹の関係では検証時の方がより暗かったとはいえない。

また、証人Yは、裁判所の検証の際の自己の視認状況について、「検証の時は、髪型については、私自身もちょっと分からなかった。検証の時は、助手席の男は頭が窓枠より上に行っていたので、見えなかった感じだが、目撃時は助手席の男は窓枠よりもう少し低くて、全部頭、髪まで見えた。検証の時は顔の輪郭は分かった。年齢は二〇歳代から三〇歳以下、まあ二〇歳代の後半くらいとかそんな感じで受けた」(第二三回)旨供述している。しかし、髪型が分からなかったとする点については、検証結果によれば、検証時には頭部全部が窓枠に遮られていたわけではなく、頭髪部分は見通せる状況にあったと認められること、顔の輪郭が分かったとする点については、同証人は具体的にどのように見えたかは表現していないこと、年齢の判断については主観的な要素の含まれる総合的評価であり、その前提となる個々の容貌の特徴を指摘していないことなどを考慮すると、これを重要視することはできないというべきである。

Yは、「交通量は、普段と比べて閑散としていた。青山一丁目からの車も数台あり、迎賓館側にも、二、三台止まっていた記憶である」(第二三回)と供述している。東京都建設局道路建設部及び警視庁交通部の統計(〈証拠〉)によれば、付近の交差点は一時間に数千台が通行する交通の頻繁な地域であると認められるから、目撃当時閑散としていたという供述自体不自然なところがないわけではない。

しかし、仮に交通が閑散としていたのであれば、裁判所の検証は交通を遮断して行ったのであるから条件が近似していたといえるし、逆に、仮に実際に交通量が頻繁であったとすれば、通常、注意力が散漫になりやすいのであるから、裁判所の検証において、交通を遮断して注意力を働かせやすい条件を設定したという意味では、裁判所の検証の結果には意味があるものと思われる。

検察官は、街路灯は、目撃時と検証時との間の二年間に、もともと白色光を放っていたものが赤みを帯びる状態に変化し、性能が劣化した旨主張し、証人Eは、「街路灯は、裁判所の検証の時は、取り替えた後のと比べると私は赤っぽく見えた。実況見分時は赤く見えるようなことはなかった」旨供述している(第二五回)。

しかし、Yは目撃時と検証時との印象の違いに関して証言を促されても、前記の①ないし③の点について供述するのみで、街路灯の色については全く指摘はしていない(第二三回)のであり、それ程の相違はなかったのではないかと考えられる。

ところで、目撃時の視認可能性については、目撃現場の明るさのほか、主体的条件として、目撃者の視力など識別能力をも考慮すべきである。そして、Yの目撃は同人が派出所の休憩室から立番を交代した直後であって、派出所前の暗さへの目の順応状態をも考慮すべきであると思われる。

Yの視力については、平成三年一月二一日付の当裁判所の検証調書によれば、東京慈恵会医科大学眼科学教室の北原健二教授が裁判所の検証補助者として平成三年一月七日に視力検査を行っている。その結果は、Yの明所視視力は両眼1.5であり、薄明視視力は照度四ルクスで両眼視力0.8、照度二ルクスで両眼視力0.6であり、夜間視力は、明順応から三〇秒後における両眼視力0.4、一分後における両眼視力0.6であった。

証人Fは、「Yの取調の際、Yは自己の視力は、2.0であると言っていた、私の視力も当時2.0で、一緒だなと記憶している」旨供述している(第一一二回、第一一四回)。右のF証言は、自らの視力と対比して供述している点で、Yがその旨供述したということについては、信用できると思われるが、他方、Yは、公判廷では「私の視力は1.5である。免許更新の時に測り、検査の人が書類を書いていて、1.5、1.5と復唱し、それを自分で聞いていたので、1.5だと理解している」旨供述し(第二三回)、2.0であった旨の供述は、全くしていない。そして他に目撃当時の視力が2.0であったとの証拠はない。何故Yが当初、Fに対しては視力2.0と供述していたのか理解に苦しむ点が残るが、目撃当時のYの視力は前記の現在の視力から推測して、当時も1.5程度であったものと認めるべきである。

前記のとおり、裁判所による検証時の裁判官の視力は、いずれも1.0であり、右のYの視力と相違があるが、裁判所の検証が夜間の現場で時間をかけて行われたのに対し、Yの目撃は暗順応の状態が問題になる状況下であり、特にYが暗順応能力に優れているとの立証もないのであり、両者の視力の差だけで、検証結果の信用性を左右するとは思われない。

検察官は、Yは不審車両、不審者の発見等の職業的訓練を経ており、裁判官と異なると主張するが、一般論に過ぎない上、訓練の経験、職務内容としてはそのとおりであるとしても、実際の識別能力においてどの程度異なるかについては立証されているわけではない。また、検察官は、裁判所の検証は、対象者の顔の特徴等が識別の可否へ与える影響を度外視しており、夜間照明下における着衣の色の錯誤を無視していると指摘するが、後者の点は、裁判所の検証は夜間照明下を前提にして色が識別できるかどうかを検証したのであり、実際の色と識別した色の誤差を問題にしているのではないから、正当な指摘とは思われず、前者の点は本件の目撃供述と裁判所の検証との関係でどのように影響するのかについての論証がない。

以上のとおり、裁判所の検証は、目撃当時とかなり近い条件で行われたものと認められ、その検証結果は十分信用するに値するものと考えられる。

右検証結果によれば、前記のとおり、識別可能性について、助手席の人物の性別、少年や老人ではない男性であること、顔を三、四回派出所方向に向けたこと、顔の輪郭が丸型で大きいこと、顔立ちに鼻が特に高いといったような際立った特徴のないこと、眼鏡を掛けていないこと、髪が顔に垂れ下がっていないこと、上衣は薄い色のものであることは識別できたが、目、鼻、口等の顔立ちの特徴、頭部の状況、年齢の見当、上衣の種別とその色については、右以上の識別は困難であったというのであり、これを前提にすると、Y証言のうち、助手席の男が眼鏡を掛けていなかったこと、ゆっくり三、四回ちらっちらっと左斜めで交番の方を見たことについては、知覚できた可能性があるが、これ以上に詳細な特徴である、年齢について三〇代後半から四〇代前半であること、目、眉毛、鼻、口などについて目が垂れ目であるとか鼻が大きいとかの特徴はないこと、口を動かさず結んでいたこと、肉付きの状態が普通であること、皮膚の色が普通の感じであること、髪の毛が長めで耳までかぶさって、ぼさぼさして、油っ気がないような感じであること、前髪は顔に垂れていないような感じで、額が見え、額が広い感じであること、服装については、段ボール箱の色のようなカーキ色のジャンパー様の運送店の作業衣のような服装であることなどの点については、そこまで詳細な特徴の識別が果たして可能であったのか、極めて疑わしいといわなければならない。また、顔の輪郭について、左斜めから見た状態が四角っぽく、いわゆる角張った感じであること、帽子はかぶっていなかったことについても、認識が可能であったか、疑問が残る。

以上からすれば、証人Yの目撃当時、同証人の証言で指摘するような助手席の男の特徴が客観的に視認可能であったかどうかについて、そもそも大きな疑問が残るというべきである。

(二)  目撃継続時間

裁判所の検証の際、Yは、A点からC点までの走行時間が11.6(二人目の計測者によれば11.5)秒の時は、「ちょっと早い」、13.3(13.1)秒の時は「スタートが早い。AB間が早い」と指示説明し、本走行の際の14.6ないし14.7秒の時は、「少し遅い」と供述した。

検察官による実況見分の際に立会人としてYが指示した車両の速度は、A点からC点までの所要時間が一一秒というものであった。

また、Yは、「昭和六〇年一月ころ、F係長にBC間が七、八秒くらいということを言った記憶がある」旨供述している(第二一回)。

右の裁判所の検証、検察官の実況見分の際のYの各指示説明は、互いに異なっている。検察官の実況見分は、昭和六〇年五月四日に行われ、裁判所の検証は、昭和六一年九月一九日に行われていることからすれば、記憶の新鮮な検察官の実況見分の際の指示説明がより正確ともいえるが、およそ経過時間の把握は正確な再現が困難であることを考慮すると、大体のところ、一一秒から十数秒であると認められる。

Yは、助手席の男をよく見たのは、B点以後である旨証言しており、裁判所の検証調書から明らかなA点からB点までが9.8メートル、B点からC点までが13.6メートルという距離関係からすると、実際の目撃時間は、この半分程度の時間であり、ごく短時間の目撃であるといわざるを得ない。しかも、助手席の男は、ゆっくり三、四回ちらっちらっと左斜めで交番の方を見たというのであり、顔の特徴をとらえ得る時間が極めて限られていたと思われる。これからすると、この短時間の間に、Yの証言のように、顔の特徴や衣服の様子などを詳細に観察する余裕があったかどうか、疑問が残る。

(三)  目撃対象との距離

前記の裁判所の検証調書によれば、目撃地点からA点までは15.8メートル、B点までは11.0メートル、C点までは7.9メートルであり、検察官作成の実況見分調書によれば、A点までは15.9メートル、B点までは11.35メートル、C点までは8.25メートルであり、この数値はほぼ一致していると認められる。

この距離については、それが夜間の目撃であることを考慮すると、好条件とはいえない。

(四)  視線の向き

Yの証言によれば、同人は、「動き始めて、私の目の前辺りまで来る間は、車と助手席の男の顔というより車のドアに書いてあった字を見ていた」(第一八回)というのである。短時間の間の目撃であるのに加え、視線が目撃対象の助手席の男に一定しておらず、反れている。しかも、同証言によれば、Yは、顔の特徴以外にも、帽子の有無、服装の色にも注意を向けていたのであるから、これらにも目を向けていたことになる。

(五)  目撃対象の状況

Yは、助手席の男をよく見たのは、B点以後である旨証言している。したがって、目撃対象は、動いている自動車の助手席に座っていて、全体として前方に進行していく関係にあった。そして、助手席の人物を見るには、車体に書かれた文字を見るのとは異なり、ある程度開かれた窓越しに、外よりある程度暗い車中を覗くような見方をせざるを得ない関係にあったと考えられる。しかも、助手席の男は、ゆっくり三、四回ちらっちらっと顔を動かしていたのであって、このような走行中の自動車内で顔の角度を動かしている状態の人物を観察することは、静止している場合よりも条件はよくなく、特徴把握の正確性については、極めて慎重に検討すべきものと思われる。

(六)  目撃の角度

Yは、目撃の角度については、助手席の男は「ゆっくり三、四回ちらっちらっと左斜めに首から上を二〇度ないし三〇度くらいにして、交番の方を見た。私は甲点から横顔と、ちらちら見たときの左斜め前の顔を見たが、正面からは見ていない」旨供述しており(第二二回)、Yは、助手席の男の顔を正面からは一度も見ていないものと認められる。横及び斜め横からだけの観察で、顔の輪郭を正確に認識できるのかという疑問が残る。

(七)  有意的注意の有無、程度

Yは、警備派出所勤務の警察官として、目撃当時立番の職務についていたのであって、周囲の状況に対して職務上の相当の注意力をもって見ていたと、一応いうことができる。

しかし、それだけでは、目撃供述の信用性の評価の上では不十分であるので、さらに、本件の具体的状況の下での目撃の有意性の有無、程度について、目撃車両を不審と思った理由、程度、記憶回復過程などを検討する。

まず、Yの証言内容を検討する。

Yは、本件車両に気がついた理由については、公判廷における供述では、「停止線より先に出てきて横断歩道の手前で止まったから、信号無視する車ではないかと思ったためである」旨供述しているが(第一七回)、事情聴取後最初に作成された昭和五九年一〇月八日付司法警察員調書(〈証拠〉)では、この点に全く触れていない。これは、同調書に添付された同人作成の図面にも停止線の記入がないことを考えると、供述調書の作成段階では停止線の存在自体が意識されていなかったものと思われ、取調における尋問技術の問題とは考えにくい。取調官のFの供述も「信号無視する車かなと思ったという点は聞いたかも知れないがはっきり記憶していない」(第一一四回)というものであり、この供述の変遷を考慮すると、不審と思った理由として重視することはできない。

また、Yは、「ゲリラと関係がないか注意して見ていたライトバン型の車両であり、助手席の男が制服姿で立っている私の方を見ている様子だったので、私もよく見ていた。職業柄、派出所の様子を窺うような感じに受け取れたので、ちょっと不審と感じた。不審という意味は、ゲリラなどに使われる車かも知れないという意味も含んでいた」旨供述している(第一八回)。

しかし、Yは、他方で、「昭和五九年一〇月一日まで誰にも報告しなかったのは、あそこで見たときは、運送屋の青い車で珍しい字が書いてあるという不審点もあったが、そういう感じだけだったからである。ゲリラ関係で偽装車両的なものの経験がなかった。不審というのは、犯罪行為に関わるようなことにつながるのかな、とまではいっていない不審である」(第一八回)、「A点で車を見たとき、ゲリラに関する車という気持は持たなかった。A―B間でもそういう気持は持たなかった。B―C間では助手席の男の動きが普通より変わっていたので、若干不審に思ったが、ゲリラに使われると具体的には思わなかった」(第二三回)、「C点以降目撃をやめたのは、高松運輸と書いてあったので、普通の運送屋の車かなということで見送った。おかしいとは思ったが、運送屋の看板をかかげていたので、追いかけるほどの不審車両でないと最終的に判断し、ナンバーの確認をしようとした記憶もなく、不審車両としてのメモ等は残してない」(第一八回)旨供述しているのであって、不審と思ったとしても、それは、犯罪と結びつけるような性質、程度のものであったとは認められない。

Yの証言中の「車両の助手席のドアに白い文字で「高松運輸」と書いてあり、電話番号もなく珍しいなと思った。それは、漢字でかなり大きく、レタリング調のような、文字を図案化したような印象的な字体で書いてあった」旨の部分については、Y自身も「その段階ではまだ、不審とは思わなかった」とも供述しているほか、右の「珍しい」との点については、会社名だけで電話番号の記載のない例が客観的に稀少であるか否かについては疑問もないわけではなく(〈証拠〉(第一二五回)、及び同証人尋問調書添付の「商用車の車体文字に関する調査報告書」)、助手席の男を特に注意して目撃したという動機としては弱いといわざるを得ない。また、Fの証言(第一一四回)及びYの司法警察員調書(〈証拠〉)によれば、Yは、捜査段階では、高松運輸の文字が印象に残った理由として、レタリング調の文字であるほか、ドアに横に大きな文字を並べている点が変わっていると供述していたと認められるが、これは、Yの右公判供述と異なっており、この点については変遷が見られるところである。

これらからすると、Yは目撃時において、本件車両をある程度不審であると感じて見たことは窺われるものの、右の程度にとどまっていたものと認められる。

次に、Yが目撃事実を上司に申告するに至った経過及びその後の取調の経過を検討する。右経過については、Yの証言(第一七回ないし第二三回)及びFの証言(第一一二回、第一一四回)によれば、以下のとおりである。すなわち、

Yは、目撃をした直後である昭和五九年九月一九日午後七時四〇分ころ、立番中に自民党本部放火事件の発生を無線で知った。その後緊急配備についた。

本件放火事件に関し、昭和五九年九月二六日に赤坂警察署長による訓授、及び、担当幹部による指示、同月二七日に指示、同月三〇日に訓授、同年一〇月一日に指示がそれぞれあった。同日は、幹部からの訓授場に掲示した事件関係の写真をよく見て目撃者等の発見に努めるようにとの指示があり、これに従い、同日、Yは掲示してあった青色ライトエースの写真を見て、公安係の担当幹部に事件当日に見た記憶がある旨報告した。

同日、Yは特別捜査本部のある麹町署に行き、実物の車両を見せられた後、特捜本部の部屋で、F係長から、事情聴取を受けた。同日夜、F係長が権田原交差点の警備派出所にYを訪ね、目撃状況を簡単に確認した。翌二日、警視庁でF係長が事情聴取をしたが、供述調書は両日とも作成していない。

同月六日に写真面割りが行われた(第一次写真面割り)。その結果、被告人の写真を選択した。しかし、当日は供述調書を作成せず、同月八日に最初の供述調書を作成した。昭和六〇年一月一七日に検察庁で写真面割りをした(第二次写真面割り)。Yは被告人の写真を選択し、検察官調書が作成された。その後、同年五月四日に被告人の単独の面通しをし、同月五日に再度面通しをした上、検察官調書を作成した。

Yは、昭和五九年一〇月一日までの経過について、次のように証言している。

「私が自民党本部放火事件の発生を知ったのは、昭和五九年九月一九日午後七時四〇分ころで、自分が勤務表にメモをした(第一七回、第一八回)。火炎車のほかに、車が使われていたということは、無線で入っていたから知っていた(第一八回)。

九月二六日に赤坂警察署長からの訓授と担当幹部による指示があった。それ以前に自民党本部放火事件について訓授があったかどうかは記憶がない(第二〇回)。この二六日の訓授の際には、自民党本部ゲリラ事件の概要の説明があり、その手配車両を発見、目撃者を捜すようにという内容の指示があった。トヨタライトエースという車種まで言ったかどうか、記憶にない。アルミバンについては、三菱キャンターであると言われた記憶はある。言われた車は三台分だったと思うが、はっきり記憶にない。その際、高松運輸という言葉が、指示事項の中にあったかどうかは記憶にない(第一八回)。この時に犯人の特徴を聞いたかも知れないが、はっきりした特徴までを指示されたかどうかは思い出さない。三菱キャンターの火炎車がペリカン便を装っていたことについては、二六日の訓授場で説明があった(第一九回)。

九月二七日の指示の時は、ペリカン車を偽装した二台の三菱キャンターが火炎車として犯行に使われた、目撃していないか、目撃者を捜せとの指示があった。指示を受けたことに関して、自分としては、見たかどうか頭の中で考えただけで、同僚と話をしたり、交番の日誌を見たりした覚えはない(第一九回)。

九月二七日以降、一〇月一日までの間には、九月三〇日の訓授があったが、訓授の内容、掲示を見たかどうか、写真が貼ってあったかどうかの記憶はない(第二〇回)」

Fは、「同年九月とは断定できないが、そんな遅くない時期に、警視庁管内の各警察署にトヨタライトエースの手配をした」旨供述している(一一二回)。

なお、自民党本部放火事件についての新聞報道をみると、九月一九日夜六番町のマンションの駐車場で自動車が炎上したことを多数の新聞が報道し、車種については、青色マイロクバス(九月二〇日付の朝日新聞朝刊(〈証拠〉))、青色ワゴン車(同日付日本経済新聞(〈証拠〉))、高松運輸と書かれた青色小型トラック(同日付毎日新聞(〈証拠〉))、トヨタライトエース(同日付東京新聞(〈証拠〉))などとし、このほか、警視庁が自民党本部の火災の陽動作戦の疑いが強いと見ていること(同日付朝日新聞朝刊、日本経済新聞)、犯人らがライトバンで逃げ、犯行時着用の衣類等を車ごと焼き捨てたと見られること(同日付朝日新聞夕刊(〈証拠〉)、同月二一日付日本経済新聞(〈証拠〉)、同日付読売新聞夕刊(〈証拠〉))を報道していることが認められる。

以上によれば、Yは、自民党本部放火事件については、発生当初から直接火炎放射に使用された車両以外にも自動車が用いられたことを知っていたこと、また、他の同僚とともに、一〇月一日までに、何度も訓授、指示などの場を通じて、犯行に用いられた車の目撃者を捜すように求められていたことが認められる。そして、一〇月一日までにはトヨタライトエースが手配車両に加わっていた可能性もあるが、仮にまだ手配車両に含まれていなかったとしても、右のような状況下では、もし自分の目撃した車両を強く不審と感じていたのであれば、少なくとも手配車両に含まれているかどうかを注意したのではないかと思われる。したがって、指示に含まれていればその旨の記憶があり、指示に出ていなければその旨の記憶があるのではないかと考えられるのに、Yは、前記のとおり、この点については、記憶がはっきりしない旨、曖昧な供述に終始している。

したがって、一〇月一日に写真を見るまでは九月一九日の目撃車両と結びつけて自ら記憶を回復していなかったというべきであり、この点からも、目撃当時、ゲリラや、犯罪と結びつけるような不審なものとして注意を向けたものではなかったことを窺わせる。

2  識別供述の特徴の詳細度

Yの公判供述は、かなり詳細で、しかも、細かいところまで総合的に観察していなければ供述できないような点も供述している。すなわち、Yは、年齢の見当、顔の輪郭の概略、眼鏡の有無、目、眉毛、鼻、口などの特徴の有無、肉付きの状況、皮膚の色、髪の毛は、長さ、性質、前髪の状況、額の様子、帽子の有無、服装の種類、色、車両についても、車種、色、車体の文字の特徴、大きさ、色、電話番号が記載されていなかったことについて、識別の程度のばらつきはあれ、いずれの点についても、知覚し記憶していることを前提に証言している。しかし、その一方で、目撃した人物と被告人の同一性について個別的、具体的に質問されると、「全体の印象、感じ」を強調する不自然さが見られるのである。

前記のとおりのほんの短時間の目撃で、しかも、正面から見る機会がなかったのにもかかわらず、このように多数の特徴に注意できたかどうかについて疑問も残るところであり、目撃からの時間的経過を考えると、心理学的にみて異常に詳し過ぎるとの指摘(〈証拠〉)は理由があると思われる。

3  目撃と供述までの時間的隔たり

右のとおり、Yの最初の供述調書の作成は、昭和五九年一〇月八日に行われており、同月一日にYが目撃事実を申告した時点から約一週間、目撃時点からは、約二〇日間が経過した後に初めて行われている。また、公判供述は、昭和六一年七月二四日から同年一一月一四日にかけて七回の公判期日で行われており、目撃当日からは、約一年一〇か月から約二年二か月を経過した後の供述である。

目撃の記憶は、認知からの時間の経過に従って、変容、忘却が起こることは免れない。しかも、Yは東宮御所警備派出所に勤務し、本件目撃後も立番勤務をしており、混同する原因となり得る同種の経験を職務上継続していたのであるから、信用性の評価に当たっては、慎重を要する。

4  写真面割手続の適否

(一)  写真面割手続の経過

写真面割りの経過については、Fの証言(第一一二回、第一一四回)、Yの証言(第一七回、第二一回、第二二回、第二三回)によれば、以下のとおりであると認められる。すなわち、

昭和五九年一〇月六日にF係長が取り調べて、写真面割りが行われた(第一次写真面割り)。その際に使用した写真帳は、符一の面割写真帳作成報告書である。この写真帳は、本件発生以前の昭和五九年八月に、警視庁公安部のG1警視がF係長に命じ、同公安部で保管していた中核派の非公然の活動家の写真から七〇枚(六五名)を選択する方法で、G2警部補が下命してG3巡査部長が作成したが、一人についての写真の枚数については、特に指示はなかった。Yに対し、Fは、「目撃した人物がいるかいないか分からないがよく見てくれ」と言い、Yは写真帳を約三〇分前後の時間をかけて、一枚一枚初めからゆっくり見ていき、番号四一の写真(被告人の写真三枚)のときに、「似ているなあ」と言い、その後再度最初から最後まで見て、「そっくりだ」と言って番号四一の写真を選択した。その間、Fからは話しかけていない。Yは、「番号一〇の写真の男は顎の感じが似ているが、目や正面から見た感じが違う」と言って除外した。番号四一の写真は、顎と目の感じがそっくりだと言ったが、目の感じがどのようであるから似ているという説明はしていない。Yは「特徴がないのが特徴のような感じがします」と述べ、Fはその点を突っ込んで尋ねなかった。同日は供述調書を作成せず、同月八日に最初の供述調書を作成した。昭和六〇年一月一七日に検察庁で写真面割りをした(第二次写真面割り)が、その際、使用した写真帳は、符二の写真帳作成報告書である。その結果、番号一三四号の写真(被告人)を選択し、検察官調書を作成した。

右の第一次写真面割りに使用した写真帳には、弁護士主張のとおり、被告人を含め二枚の写真が貼付された人物が数名いるが、Fの証言によれば、特に意図的な編集が行われているとはいえない。

中核派の非公然活動家の写真を集めた写真帳を使用した点については、本件が中核派の犯行であることが犯行声明により判明していた状況の下で、その合理性があると認められ、一方、このような写真帳であるからといって、目撃者に不当な予断を与えるものとはいい難い。また、写真帳の呈示に当たって、写真の中に必ず犯人がいる旨などの捜査官からの誘導、暗示があったとも認められない。

(二)  写真面割り以前の供述

Yの取調を担当したFは、写真面割りをする前には、事情聴取をするにとどまり、供述調書を作成していない。

そこで、Fの証言及びYの証言に現れた写真面割りの前の段階でのYの説明を検討する。

Yは、写真面割りの前の段階について、「昭和五九年一〇月二日には、助手席の男の特徴については、目、鼻、口はとくに特徴はなかったが、髪がぼさぼさで角張った顔、段ボール箱様のジャンパー様の作業着を着ていたというようなことを話した。同月一日にも大体の特徴を話したが、翌二日には、一日より詳しい人相の特徴を言った。詳しくなった点ははっきり思い出せないが、目、鼻、口、全体の印象とくに目が垂れ目とか、鼻が大きいとかの特徴はないことは一日には言っていなかった記憶で、二日に話したと思う。その後の日における説明は、二日とそんなに変わらない内容である」と供述している(第二一回)。

Fは、「Yは、昭和五九年一〇月一日の取調の際には、頭髪については、長めで、あんまり油でぴっとなっているのでなく、ちょっとぼさっとした感じの長めの髪だったというような表現をし、顔の輪郭は、角張った顔、目、鼻、口については、具体的特徴は、これだという特徴はない、服装はカーキ色で、段ボール箱の色のジャンパーを着ていたと供述していた」旨供述し(第一一四回)、「私自身は、一〇月一日、二日、六日いずれもYの説明する助手席の男のイメージは全く分からなかった」旨供述しており(第一一二回、第一一四回)、写真面割り前に供述調書を作成しなかった理由としては、「昭和五九年一〇月一日は、Yの話を聞いて、Yが見たというのは本物だなと思った。顔を見て覚えているという雰囲気だったので、写真面割りができるだろう、完全に記憶を呼び戻してもらい、はっきり見た状況のイメージを戻してもらった上で写真面割りをした方がいいと考えた。この日供述調書を作成しなかった理由は、見た状況を完全にイメージとして浮かび上がらせてから写真面割りをして、供述調書を作成しよう、そんなに急ぐ必要ない、と思ったからである。一〇月二日も供述調書は作らなかったが、その理由は、二日の供述は、一日おいて考えた結果、一〇月一日より目撃時刻の点と眼鏡の点が詳細になっており、記憶がよみがえるのではないかという感じをもったからで、彼の一〇月三日から三、四日間の休みの間にもう一回一生懸命考えてくれと頼んだ」旨供述している(第一一二回、第一一四回)。

写真面割りによる影響のない段階でのYの記憶の再生の状況は、Yの写真面割り前に目撃した人物の特徴に関する供述調書が作成されていないため、一応、右のようなものと考えざるを得ない。

右のYの説明は、公判供述と対比して、かなり大雑把なものであり、取調に当たったFが、Yの説明を聞いても助手席の男のイメージをつかめなかったというのも無理はないように思われる。

これを、一人の特定の顔貌の記憶を回復し、想起したのに、目撃者の表現力不足により、言語表現を適切にできないまま、大雑把な、曖昧な人物描写をするにとどまってしまったと考えるべきなのか、それとも、そもそも自らは顔貌を想起できないままで、その後の写真面割りの段階で再確認をしたと考えるべきなのかは、一つの問題である。

確かに、Yが、写真面割り前に、目、鼻、口に特徴がないこと、髪、顔の輪郭、服装の色、種類を話したということは、大雑把であれ、自ら思い出した顔の説明をしたと考える余地もある。

しかし、そう考えるためには、証拠から認定できる写真面割り以前の説明内容が余りにも乏しく、多くの人に当てはまる特徴を言ってみたに過ぎないともいい得るのであって、Yが事前に目撃した人物を明確に想起していたが言語的表現の点で欠けていたにとどまるとまでは認定することはできない。

とくに、Yは「符一の写真帳の番号一〇及び符二の写真帳の番号一三の写真の男(同一人物であるが、被告人ではない)についても、顔の輪郭、全体の印象が目撃した人物に似ていると思ったが、目が細い感じなので除外した」旨供述しているところ(第二二回)、正面から目撃する機会がなかったにもかかわらず、目の感じで被告人と右写真の人物を本当に区別できたのか甚だ疑問であり、Yの右供述は、同人が目撃した人物を事前に明確に想起していなかったことを窺わせるものといえよう。

また、写真面割り以前の供述を録取した調書が存在しない上、右供述に関する証拠が乏しいため、Yが事前にどのような特徴を述べており、それが、写真面割りの際に選んだ写真にどのような点で合致しているのかについて、検証できないので、写真を主観的な基準で選択したのではないかという危惧も払拭できない。このため、写真面割り以後の供述の信用性の評価においては、写真に影響を受けた供述ではないかとの点について慎重にならざるを得ない。

(三)  面通しによる再度の確認

本件では、面通しの手続が行われていて、それまでのYの写真面割りの結果が維持されている。しかし、目撃者による犯人の同一性の確認は、第一回目のそれこそが決定的に重要で、その際の判断の正確さの程度がその証拠価値のほとんどを決するというべきであり、本件のように二度の写真面割り後に行われた面通しには写真面割りによる影響が払拭できないから、面通しによる再度の確認は、必ずしもY証言の信用性を高めるものとはいえない。

5  写真面割り等からの影響

前記のとおり、写真面割り以前の供述が明らかでなく、大雑把な説明にとどまっていたものと窺えること、写真選択の際にその根拠を明確に尋問していないことなどから、以後の供述が写真面割りによる暗示を受けた目撃供述となっているのではないかとの疑問が残る。

また、面通しの影響については、Yは、「面通しの時、額が広かったことを思い出した。そのことを逮捕前に検事や警察に述べたことはない。とくに聞かれなかった。顔全体の印象として含めた感じで話したつもりだった」と供述している(第二二回)が、目撃した人物の額の広さについては、面通し後に作成された昭和六〇年五月五日付検察官調書(〈証拠〉)において初めて供述していることにも照らすと、Yは、面通しの際に暗示を受けた結果、そのように述べるに至ったのではないかとの疑問が残る。

6  被告人の客観的特徴との対比

Yは、法廷にいる被告人を見て、「今見れば面長で、顎が尖っている感じがする」旨供述している(第二二回)。顎が出ている点は被告人の顔貌の客観的な特徴の一つと思われるが、Yの目撃供述には、この点の特徴は明確には出ていない。

すなわち、Yは、公判廷で、助手席の男は「顎はそんなには尖っていなかった」旨供述した後、「やや尖っている印象を受けた」とも供述し、「尖っているという言葉は使わなかったが、全体の印象で、自分としては含めてそんな感じで言った記憶である」、「一〇月に、F係長に顎がやや尖っていると言ったか思い出せない、顎が尖っているかどうかについて取調検事に明白に言った記憶はない」旨の曖昧な供述をしている(第二二回)。

7  供述の変遷

Yの供述には、前記のとおり、本件車両に気がついた理由、高松運輸の文字が印象に残った理由について供述に変遷があるほか、以下のような供述の変遷があり、信用性の検討に際して慎重な考慮が必要である。

(一)  目撃時刻

Fの証言(第一一二回、第一一四回)によれば、Yは、一〇月一日の事情聴取の際には、立番を交代した時間は、いつも五分前に交代することを根拠に午後七時二五分としていたが、同日二日の事情聴取の際には、二五分より早く、二二、三分ころであると供述し、同月六日には、二二分ころ交代し、二三分ころ目撃したと供述した。そして、昭和五九年一〇月八日付の司法警察員調書(〈証拠〉)では、「時刻は七時二二分ころ交代し、直後に目撃したので、目撃時刻は、七時二三分ころと思う」旨の供述となり、公判供述では、「交代したのが二一分過ぎか二一、二分という感じで、目撃したのは交代直後の七時二二、三分ころである」(第一七回)となっている。

そして、供述を変えた根拠としては、「一〇月一日に記憶喚起をした結果、普通五分前に交代するが、相勤者のG4巡査が二時間続けて勤務についたので、早めに交代したことを思い出した」(第一七回)というものである。

しかし、Yは交代当時時計で時刻を確認したわけでも、交代時刻を記録したメモを残していたわけでもなく、全くの記憶に過ぎないものである上、前述のとおり、迎賓館の前でDが目撃した時刻は午後七時二五分ころであり、F証言によれば、Yの取調に当たったFは、一〇月六日には、それを知っていたという事実が認められ、それを前提に捜査官において供述を合致させることも可能であったことを考えると、この点の変遷は信用性を考える上で軽視できない。

(二)  眼鏡の有無

Yの捜査段階の供述には、眼鏡を掛けていたか、いなかったかについて、変遷がある。

すなわち、Fの証言(第一一二回)によれば、Yは、一〇月一日の事情聴取では、「眼鏡は掛けていたかな、掛けていないかな」という言い方をしていたのが、同月二日には、掛けていなかったと供述するに至っている。記憶喚起に努力した場合でも、眼鏡を掛けていたかどうかの点は、何かの手がかりがある場合はともかくとして、仮に時間をかけたとしても記憶を回復するという性質のものではないと思われ、このような記憶回復の過程については、不自然さを払拭できない。

(三)  助手席の男の動き

また、Yの司法警察員聴取(〈証拠〉)には、助手席の男がちらちらと顔を動かしていたことは記載がない。Fの証言(第一一四回)では、Yは、「横顔と、左折する時に、交番の方を見た、正面に近い状態を見た」「②の点から助手席の男がずっと自分の方を見ていた」とし、「助手席の男がちらちら顔を向けたということは、調書には書いていないが、Yは言っていた。調書の「男も私の方を見ていたので、よく記憶している」という表現の中で含めて書いた」ということであるが、一方で、「Yは助手席の男がちらちら首を動かしたことは述べていない」とも供述している。目撃供述にとって、目撃対象が正面から見えたか、どのような動きをしているところを見たかは、極めて重要な条件であるにもかかわらず、第一次の写真面割りを経た後の司法警察員調書(〈証拠〉)では、この点に触れていない。

三  結論

以上のとおり、Yの目撃供述については、その目撃が極めて悪い条件下で行われており、目撃車両(逃走用車両)がその時刻に通ったことは認められるが、助手席の男については、目撃供述の内容となっている人物の個々の特徴が視認できたかどうかの前提に疑問がある上、その他の客観的、主観的目撃条件、供述の経過等を検討すると、信用性に重大な疑問があり、これをもって被告人が右車両の助手席の男と同一人物であると断定するには、未だ証明が不十分であるといわざるを得ない。

四  九月一九日のアリバイ主張について

第一被告人が、昭和五六九年九月一九日、放火実行犯人らの逃走用の普通貨物自動車(トヨタライトエース)に同乗していたことを認定し得ないことは既に説明したとおりであるが、弁護人は、同日の被告人のアリバイが完全に成立すると主張し、徹底した立証活動を展開してきた審理経過に照らし、右アリバイ主張に対する当裁判所の見解を示すことにする。

第二被告人のアリバイ主張の要旨

被告人は、右アリバイ主張に関し、要旨次のとおり供述する(第七五回、第七六回、第七八回、第七九回、第八二回、第八三回)。

「昭和五九年九月一七日に国分商店不動産において、甲名義でむつみ荘を賃借する契約をし、同月一八日は、夕方、埼玉県の上尾の周辺のどこかで、学習会のメンバー六人のうち木村を除く五人が集まって、引越しの打合せを泊まりがけで行った。

同月一九日は、朝、車で大宮付近まで送ってもらって、大宮駅の近くで降りて、旧中仙道を通っている浦和行きのバスに乗って浦和に行った。午前一〇時少し過ぎに浦和市のイトーヨーカ堂の衣料品売場に行って、薄めのジャンパーを買い、店を出てすぐにそこで着た。その日の服装は、ジャンパーの下が白っぽい半袖のワイシャツにネクタイをし、下は替ズボンだった。紙袋を透明のビニールで覆っている二、三〇〇円くらいの黄緑色の袋を持っていた。西口から浦和駅に入って、京浜東北線で南浦和に行き、武蔵野線に乗り換えて西国分寺まで行き、さらに中央線に乗り換えて、国分寺駅で降りた。国分寺駅に降り立ったのが大体一二時一〇分前くらいだった。そこで甲に部屋の賃借の件で何か確認の電話などが来ていないか確認するため電話をかけた。甲からは何もありませんという答だった。一二時ないしその直後に、国分商店不動産に入った。店には経営者の中島保昌と四〇歳ぐらいの女性事務員がいた。「先日伺いました甲です」と言った。女性がお茶を入れてくれた。中島はやりかけの仕事があったらしく、「じゃあ、掛けて少しお待ち下さい」と言った。私が一分ほど待っていると、中島が契約書を取り出し、私にお茶をもう一杯入れてくれた。その時、「うちのお茶は宇治から直接取り寄せているんです」という話と「女性事務員は昼間はいなくなっちゃうんですよ」という話があった。この日、契約書に連帯保証人の佐藤三男の「佐藤」という捺印を三か所にした。その契約書が符一九の貸室賃貸借契約書、印は符三〇の印鑑である。せいぜい一〇分くらいで出たが、中島との会話などから不審がられていないと判断した。その後、駅前の電話ボックスまで戻って、甲に保証人の判を押したことを連絡し、予定どおり引越しをやりたいので打合せどおりレンタカーの予約の方をよろしくと念を押した。国分寺から、西武線の支線で東村山に行き、西武新宿線に乗り換えて本川越に向かった。乗り換える前に東村山の立ちそば店(「狭山そば」というのか染め抜きの旗があった。)で、てんぷらそばを食べた。二〇〇円前後の値段であった。一時一〇分くらいに本川越に着き、松江町二丁目というバス停まで歩いて、南古谷を経由する大宮西口行きのバスに乗った。雨が若干降り出した時にちょうどバス停に着いたので、バス停がその前にある酒屋の軒下で雨宿りした。四、五分待ったと思うが、子供連れの母親が子供を送って来てマイクロバスに乗せるのを見た。バスに乗り、二時一〇分か一五分ころ、西高校入口というバス停でバスを降りた。そこから迂回しながらジグザグに歩いて、埼玉生協指扇店に着いた。待合せの午後三時に二、三分遅れたと思う。そこには、K1、名前の言えないA、B、Cの合計四人と待ち合せることになっていたが、私が着いた時はK1とCだけが指扇店の駐車場の前にいた。雨が降り出したので自転車置場のところに移って待った。その間、私が傘を持ち歩いていなかったことを、K1からこんな日に傘を持ち歩いていないのはまずいですねと、Cからはナンセンスだなと言われたことが非常に強い印象として残っている。また、K1に島万別館の予約が取れたかと聞くと、OKだったと話していたこと、Cが盛んに地震の話をしていたことが印象に残っている。私は生協の中に角二の封筒が売っていないかを探しに行った。私がその日不動産屋にはんこを押しに行ったことをK1に話した。三時四〇分まで待ったが、あとの二人が来ないので、三人で生協の前からバスに乗って三橋五丁目というバス停で降り、「すかいらーく」大宮三橋店まで歩いて行き、午後四時五分ほど前に着いた。店内に入って奥の方のボックスに座った。一〇分くらい経って、Bが来たのが見えたので店を出て、Bと一緒にAの車のところまで行った。四人がAの車に乗り込んで、ホテル島万別館の近くまで行った。途中で弁当を買った。私とK1とCは島万別館の近くで車を降りて、歩いて島万別館に行った。三人は午後六時三〇分少し前、島万別館に入った。K1が「予約しているK1ですけど」と声を掛けると、六〇歳くらいの女性つまり榮しずえが出て来た。K1が宿帳に記入し、宿泊の代金を払った。しずえから二階の二〇一、二〇二号室ですという説明を受け、K1が鍵をもらって、しずえの案内で二階に行った。女子風呂に入って下さいという説明があった。三人は二〇一号室に入った。三人で交代で夕食と入浴をした。私が浴槽に入っている時に窓の外から宿の女性に、「湯加減はどうですか、狭い方で済みません」と声を掛けられた。私が風呂から上がって、二〇一号室に戻った時に、ほかの三人が到着していること、七時三〇分くらいから学習会を始めるということをCから聞かされた。K2が入浴前に二〇一号室に顔を出し、その時「西遊馬」という地名を何と読むかについて、K1と三人で話をした。午後七時三〇分に学習会が始まるまでは部屋のテレビをつけていたが、ニュース番組で九月一四日にあった長野県王滝村の地震の被災地の報道をしていた。七時半になって二〇一号室にほかの三人が来た。部屋に敷いてあった布団三組を重ねて、空いたところにテーブルを出して、六人全員でテーブルを囲んで座った。K1が宿泊代をみんなから集めて、K2がみんなに「前進」を一部ずつ配った。若干の時間それに目を通してから、学習会が始まった。使ったのは「前進」第一二〇三号である。同号の一面論文を章ごとに区切って、C、私、B、K2の順で三〇分くらいかけて音読した後、レポーター役のK1が三〇分くらい解説をした。九時前後にそれが終わり、一〇分くらい休憩を取ろうということになりテレビをつけたところ、NHKの「ニュースセンター九時」で、自民党本部炎上の場面を映していた。その場面を見ながら、K1が電話でビールの注文をし、K1と私の二人で一階の厨房までビールを取りに行った。戻って来るとCがゲリラだよと言ったので、私は非常に驚いた。ビールは最初六本注文し、あとで四本追加注文した。学習会は一〇時少し過ぎころに、K1が、「前進」はいいですね、学習会はいいですねということを切り出して、休憩のまま打切りになった。それからビールを飲み始めた。テレビは一二時ころまでつけっ放しにしていた。テレビに映った浜田幸一議員や田中六助議員の言動を巡って六人でやりとりをした。私は、七〇年闘争以来の新しい情勢が生み出されるような闘いではないかということと、反動ということでもかなり強まって来るんじゃないかということを強調した。一一時過ぎには、テレビのニュースで中核派革命軍の犯行声明が報道された。次回の学習会の幹事、場所を確認して、一二時ちょっと過ぎに解散したが、その前に、私の引越しについて九月二四日に、K2とCに手伝ってもらって搬入作業をする打合せをした。その際、K2に、保証人のはんこを契約書に押す作業がその日に終わったことを知らせた。二〇一号室では、私とCとK1が寝た。

翌二〇日は、午前六時三〇分に起床し、七時前後ころ、二〇一号室の三人が支度のできているところに、二〇二号室の三人が支度をしてやって来た。二〇分か三〇分、テレビを見て話をした。その間に、K1が一階に降りて行って領収証をもらってきた。これは、前夜、領収証をもらっていないということがBの指摘で話題になり、もらった方が自然だということが確認されたためである。私とK1が先に出て、あとの四人が少し遅れて出た。K1だけが島万別館の前で別れて、残りはAの車に乗り込んで、大宮駅の方に向かった。車中で、引越しの手伝いをしてもらうことについて、K2がCに安い作業着を一緒に買っておいて欲しいと頼んでいた。大宮駅の近くでK2と一緒に降り、すぐにK2とも別れた。新聞を買って、小手指に向かった。甲に電話して、レンタカーの予約を確認した」

第三アリバイ主張についての証拠関係の検討

一  弁護人は、被告人の右アリバイ主張を立証するため、「北村義昭」の署名及び到着日時「昭和五九年九月一九日」、出発日時「二〇日」、室名「二〇一、二」、備考「スミ、六人」等と記載のあるホテル島万別館の宿泊者芳名伺簿(〈証拠〉)、五九年九月二〇日付北村様宛御宿泊料二万八〇〇〇円の同ホテル発行の徴収証(〈証拠〉)、卓上カレンダー(〈証拠〉)、入金伝票(〈証拠〉)の証拠物を申請した上、K1、K2、K3、K4、K5、K6、甲、甲2、I、榮康次郎、榮しずえ、及び中島保昌を証人として尋問している。

右のうち、K4(第七〇回)は、「「前進」は、毎週月曜日に発行し、大半は手渡しで配布する。K2から依頼を受けて、昭和五八年夏ころから昭和五九年一二月まで、K3を通じて「前進」六部を毎週水曜日にK2に届けていた」などと供述し、K5(第七〇回、第七一回)は、「昭和六〇年五月五日、前進社で記者会見をして、昭和五九年九月一九日の被告人のアリバイに関する緊急声明を発表した」などと供述し、K6(第七一回)は、「昭和六〇年五月七日、K2が前進社に訪ねてきて、昭和五九年九月一九日の被告人のアリバイについて話してくれた」などと供述し、甲(第七二回)は、「昭和五九年二月、被告人が私の名でアパートを借りることを承諾した。昭和五九年九月一九日昼ころ、被告人から、これから不動産屋へ行くという電話をもらった」などと供述し、I(第七四回)は、「昭和六〇年五月四日から五日にかけて、春日部市内のホテル島万別館へ一瀬弁護士とともに出掛け、昭和五九年九月一九日の被告人のアリバイ裏付け調査を行った。マイクロカセット用テープレコーダでその時の記録を取り、その反訳書も作成した」などと供述し、榮しずえ及び榮康次郎(いずれも第七三回)は、いずれも「昭和五九年九月一九日の北村義昭ら六名のホテル島万別館における具体的行動については記憶がなく、法廷の被告人の顔に見覚えがない」などと供述し、中島保昌(第七四回)は、「昭和五九年九月一七日甲と名乗る被告人と「むつみ荘」の賃貸借契約書を作成した。被告人は、それから何日もおかないで保証人の印を押したが、それが同月一九日のことかどうか分からない」などと供述しており、以上の各証人の証言は、いずれも被告人のアリバイの成否を左右するものとはいえない。結局、アリバイ証明に意味を持つと考えられるのは、K1、K2、K3の三名の証言であるところ、右三名の証言の要旨は、次のとおりである。

1  K1の証言(第六二回ないし第六四回)の要旨

「昭和五九年九月一九日昼ころ、この日の学習会の幹事として埼玉県春日部市内のホテル島万別館に電話をかけ、北村の名前で六人、二部屋の予約をした。同日午後三時ころ、大宮市の埼玉生協指扇店の駐車場で被告人及びCと合流し、さらにバスを利用して午後四時ころ、「すかいらーく」大宮三橋店に行き、同店付近でA及びBと合流し、車でホテル島万別館付近まで行き、同所で被告人、C及び私が下車して徒歩で午後六時三〇分ころ同ホテルに赴き、A及びBは車でK2を迎えに行って、その後、K2らは同ホテルに来た。午後七時三〇分ころ、被告人、K2、A、B、C及び私の合計六名は、同ホテル二〇一号室に集まり、K2がその日受け取って来た「前進」第一二〇三号(一九八四年九月二四日付)を使って、学習会を始めた。午後九時ころ、その日のレポーター役である私が解説を終え、休憩に入ったが、その休憩時間中にテレビで自民党本部が炎上している場面を見た。翌二〇日午前零時過ぎころ、二〇一号室及び二〇二号室に分れて就寝し、同日朝、昨夜ビールを渡してくれたホテルの若い男に、宛名を北村とした六名分の宿泊料にビール代金一〇本分を加えた二万八〇〇〇円の領収証を書いてもらい、同日午前七時三〇分ころ、六人で同ホテルを出て解散した」

2  K2の証言(第六五回ないし第六八回)の要旨

「昭和五九年九月一八日、被告人、A、B、C及び私は、泊まり込みで被告人の引越しの相談をし、翌一九日朝、被告人と別れ、同日午前一一時ころ、横浜市内でK3と会って「前進」を受け取り、同日午後六時三〇分過ぎころ、春日部市内の八木崎駅近くの喫茶店「ベル」及び同所付近でA及びBと合流し、午後七時前ころ、ホテル島万別館に行った。午後七時三〇分ころ、同ホテル二〇一号室に被告人、K1、A、B、C及び私の合計六人が集まり、学習会を始め、午後九時ころ休憩に入った。そして、テレビをつけたところ、自民党本部放火事件のニュースが流れており、全員画面に吸い付けられた」

3  K3の証言(第六九回)の要旨

「昭和五九年九月一九日、待合せ場所である横浜市緑区にある平川神社でK2と会い、同人に「前進」六部を渡した」

二  検討

1  被告人らが昭和五九年九月一九日夕方からホテル島万別館に宿泊していたことを立証するため弁護人が申請した証拠物は、前記の領収証及び宿泊者芳名伺簿が主要なものであるが、右領収証は同ホテル従業員が作成したものであり、宿泊者芳名伺簿も正規のものであることから、北村を名乗る男らが同日夜宿泊したことは認められるものの、これらの証拠物のみで被告人の右宿泊事実が裏付けられるものではない。また、同ホテルの関係者など第三者的立場から、被告人が同ホテルに宿泊した旨証言するものはなく、榮しずえ及び榮康次郎の両名も、当日の宿泊者のなかに被告人らがいたという具体的記憶はない旨証言している。被告人の同日におけるアリバイを裏付ける直接的な証拠としては、前記K1及びK2の各証言が存するのみである。

2  次に、右弁護人申請にかかわるアリバイ証人らは、いずれも証言の信用性を検討する上で不可欠と認められる重要な事項、例えば、被告人、K2、K1以外の学習会の参加者すなわちA、B、Cの人定事項、証人ら自身の中核派との関係等について証言を拒否し、K1、K2においては、裁判長から証言を促されても証言拒否等の姿勢を堅持しているのであって、これでは自己に都合のよいことのみを供述、証言したに過ぎないといわれても仕方がなく、その点に限ってみても右各証言の信用性を低下させる事由というべきである。

3  右弁護人申請のアリバイ証人らは、いずれも、昭和五九年九月一九日当日の出来事につき、常識的にみて同人らが特段の関心を持たなかったと思われ、通常記憶を維持することが困難であると考えられる事項、例えば、埼玉生協指扇店で待ち合せた時の各人の服装、持物や「すかいらーく」大宮三橋店で各人が注文した物、互いに交わした会話の内容などについてまで、約四年も経過した後に証言直前に体験したかのごとく極めて詳細に証言している反面、前記のように証言の信用性を判断する上で重要な事項についての証言を否定するなどし、さらに、前後の証言内容等から当然記憶していると認められる事項、例えば、昭和五九年九月一九日以外の学習会会場等を全く思い出せないなど不自然、不合理さも否定できない。

4  また、K1は、前記領収証の保管場所につき、「友人のアパートの机の引出しに入れておいた」旨証言するだけで、その友人の氏名等を明らかにしていないのみならず、右領収証のみを六か月以上も保管していた事情について、「領収証を友人の机の引出しに入れた時の理由は特に覚えていない。特に意図をもってそうしたということではない。現在も、半年あるいは一年前の領収証を手元に残しているかは言いたくない」「右領収証以外の学習会の領収証は、持っていても意味がないので処分してしまい現在は残っていない」などと、曖昧な証言に終始しているのであって、このように右領収証の保管及びK1が被告人の逮捕を知った後の昭和六〇年五月四日に救対関係を担当しているK21に右領収証を手渡した経緯について、K1証言は合理的に説明しているともいい難く、不自然さが残るといわなければならない。

5  被告人は、証拠調の最終段階である第一二一回公判において供述を変更するまでは、前記のとおり、「当日正午過ぎに国分商店不動産を出て、国分寺から学習会の待合せ場所である指扇に向かう途中、西武東村山駅構内の「狭山そば」という染め抜きの旗が出ていた立ちそば店で、二〇〇円前後のてんぷらそばを食べた」旨の供述をしていたところ、右そば店を経営する西武通運株式会社の取締役である田島宏次郎(第一〇八回)は、「同そば店は、昭和五九年九月一七日から同年一〇月一七日まで、店舗改装のため休業していたので、同年九月一九日は営業していなかった。また、同店の名称が「狭山そば東村山店」となったのは、右改装後の同年一〇月からで、改装前は「秩父そば東村山店」という名称であった」旨証言し、これを裏付ける「商事売上明細書」などの客観的証拠も存在するのであるから、この点に関する被告人の前記供述が虚偽のものであることは明らかである。

6 以上指摘したように、被告人のアリバイ主張及びこれに符合するK1、K2、及びK3の各証言には不自然、不合理と思われる点が少なくない上、同人らは被告人と同じ中核派の構成員又は同派と関係の深い者であることなどに照らすと、弁護人の主張するように九月一九日の被告人のアリバイが完全に証明されたものとはいい難いが、前記のように被告人のアリバイ主張に符合するホテル島万別館の宿泊者芳名伺簿、領収証等の証拠物が存在する本件においては、右アリバイ主張が虚偽のものであると断定することはできないといわなければならない。

五  T証言等の信用性

第一検察官は、T、Nの各証言等によれば、被告人が、昭和五九年八月一日、東京都千代田区〈住所略〉シーケーディ東京販売株式会社秋葉原営業所において、「坂田工業の坂田」と名乗り、シーケーディ精機株式会社製の圧力調整器(二〇〇一−四C)五個を、同日、同都大田区蒲田四丁目二四番三号シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所において、「協和電機の小島」と名乗り、シーケーディ株式会社製の電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)一〇個をそれぞれ購入したことは明らかであると主張するので、以下、右各証言等の信用性について検討する。

第二T証言の信用性の検討

一  T証言の要旨

証人Tは、要旨次のとおり供述している(第二八回ないし第三〇回)。

「昭和五五年九月一日から同五九年一二月二八日まで、シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所に勤務していた。同営業所の所在は、昭和五八年五月ころ以降は東京都大田区〈住所略〉大東ビル一階だった。同営業所の業務内容は、電磁弁、シリンダー、圧力調整器、バルブなどの省力機器の販売で、私の仕事の内容は営業事務で、電話注文や直接来店する客の伝票の作成や伝票処理、店頭での客との対応などであった。

商品の販売方法には店頭売りと掛売りの二つがあるが、掛売りがほとんどであって、月によっても違うが店頭売りは大体一割あればよい。

現金売りの客が買う電磁弁の個数は普通は一回について一個か二個であり、電磁弁一〇個くらいをまとめて売ったことは、覚えている中で一度だけであり、その時期は昭和五九年八月上旬くらいである。売った電磁弁の型番はAB四一―〇三―五―AC一〇〇Vである。

商品を販売する際には、カーボンの複写式になっている六枚綴の伝票を作成する。伝票は一枚目が受注控、二枚目がインプット用紙、三枚目が入金控、四枚目が納品兼請求書、五枚目が物品受領書、六枚目が領収書である。このときも伝票を作成した。物品受領書をみると、伝票を書いた月日すなわち売った月日、販売の担当者、客の会社名、型番と数量が分かる。

物品受領書(〈証拠〉)は見覚えがあり、受領印欄の「小島」という部分以外は全部私が記入したものである。これによれば、販売の日を八月一日と特定することができる。

売ったのは、その日の午後二時ぐらいだと思う。その客は男で、連れがいたかどうかは分からないが、店に入ってきた時は一人だったと思う。

客が入ってきたとき、私は入口の客から見て左側の整理棚の前にいた。T2さんが電話で在庫確認を受けていたみたいで、T2さんのノートに型番が書いてあったので、現金売りのお客さんだということをT2さんに言われて私が引き継いで対応した。電磁弁一〇個は、私が営業所に隣接する倉庫に取りに行ってきた。それを、段ボールに入れて持って来て入口を入ってすぐの高さ九〇センチメートル、幅四〇ないし五〇センチメートルのスチール製書類棚を利用したカウンター上に置き、カウンターのところに私が立ち、客も向い側に立っている形になった。

それから私はカウンターから歩いて四、五歩のところにある自分の机の上で六枚綴の伝票を作成した。その時、伝票のお客様名欄の「協和電機」のうち「協和」というのは、伝票を書く時に自分の机のところから客に向かって聞いた。客は「協力の協に、平和の和」と言ったと思う。「電機」は私の方でこの字と思って書いてしまった。この話をしている時、私は、事務机からカウンター越しに客の顔を見た。

納品兼請求書、領収書及び物品受領書をカウンターのところに持って行った。多分まず代金四万三七〇〇円を頂いて、物品受領書にサインしてもらったと思う。サインは、カウンターの上で何も敷かずに、私がいつも使っている黒のボールペンを使ってしてもらった。客は左肘で物品受領書の左下の方を押えて、私も押えた。普通、ぐしゃぐしゃと書くお客さんが多いので、このお客さんはずいぶん丁寧に非常にゆっくり書くなと思った。ボールペンは右手で持ちほんとに真っ直ぐ立てて、非常にゆっくり書いた。書きにくそうで伝票が動いたので、私が押えた。サインの時には、カウンター越しに客の顔をすぐそばで見ている。客に納品兼請求書と受領書を渡した。物品受領書はこちらで受け取った。対応した時間は五分くらいだったと思う。

販売した時の状況をよく覚えているのは、数量が多いことと、サインの仕方がその肘とか押え方がちょっと奇妙だったという点からである。

今までの得意先に協和電機はないし、現金売りをした客の中で協和電機はない。昭和五九年八月一日以降、私の退職するまでの間に、協和電機に物品を販売したことはない。

その客に会ったのは、このとき一度だけである。

客の年齢は三五歳から四〇歳くらいで、身長は一六五センチメートルくらいだったと思う。髪はちょっとウェーブがかった天然パーマかなという感じで、七三くらいに分けていたが、びしっと分けた感じではない。髪の長さは短くはなかったが、長髪ではない。体格は普通だったと思う。服装や服の色は覚えていない。ネクタイはしてなかったんじゃないかと思う。眼鏡は覚えていない。唇が少し薄めだった。頬の辺が少し肉付きが良かったかなという感じで、太っているというよりも、ちょっと、耳のやや前辺りの顎の近くが張ったような感じで、ちょっとふっくらというか、えらがちょっと張ったというような感じだった。言葉になまりがあったかどうかは覚えていない。

昭和五九年一一月ころ、警察官から、物品受領書を見せられてその客のことを聞かれ、先程述べた客の特徴などを話し、また、三分冊の写真帳を見せられて、「なんか見たことがあるような人がいたら、何枚でもいいですから選んで下さい」と言われたので、第三分冊の一七の右下の写真(被告人)を年齢的なところとほっぺたの感じから似ていると思い、迷わずに選んだ。昭和六〇年一月ころ、検察官から写真帳を見せられ、一一〇番、一三四番の各写真(いずれも被告人)を八月一日の客として選んだが、一一〇番は年齢的に若く、一三四番の写真が八月一日の客の印象に近い。また、同年五月に、被告人についての面通しをし、随分頬がこけてしまったなという感じを受けたが、年齢の感じ、髪型、唇が薄いという点を含め、断言はできないが、小島という客と同一人物だと思った。

法廷(第二八回公判、昭和六二年二月一三日)にいる被告人の顔を見て、どこかで見たことがあるという記憶がある。八月一日の小島と名乗った客と全体的に似ている。断言できないが、同一人物だと思う。どこか違うなという点は特にない」

二 信用性の検討

そこで、既にYの目撃供述の信用性の判断において指摘したような種々の目撃条件等を考慮しつつ、T証言の信用性について検討を加える。

1  観察

Tが右小島と名乗る客と対応するに至った経緯、Tが倉庫から電磁弁を取り出し、伝票を作成したこと、カウンターをはさんで客に電磁弁を渡したこと等については、証人T2(第二八回)も同様の供述をしており、Tの右証言を裏付けている。

そして、右証言によれば、Tは小島と名乗る客の顔を、幅四〇ないし五〇センチメートルのカウンターをはさんだ至近距離から観察していること、時間は、カウンターをはさんでの観察のほか、カウンターから四、五歩の距離からの観察、その他客を見ていない時間を含めて合計で約五分間であること、観察の態様が、店舗内で客と対応に出た店員という関係であって、会話をしながら観察していることが認められる。

2  記憶

Tは前記のとおり、小島と名乗る客が印象に残っている理由として、現金売りの電磁弁の販売数量が多いこと、サインの仕方の特異性を挙げているところ、証人T2も、蒲田営業所では、現金売りは掛売りに比べて非常に少なく、一日に一、二件あればいいほうで、ない日もあること、電磁弁を現金売りで買って行く客は普通一個か二個買って行くのがほとんどで、まとめて買って行った客は、昭和五五年から同証人が証言した第二八回公判期日までに、前記協和電機を名乗る客の一回だけであることを証言しており、右の電磁弁一〇個の現金売りは、同営業所においては特異な出来事であったことが認められる。また、サインの仕方についてのTの供述は、「左の肘でこの物品受領書の左下の方を押えて」「ボールペンをほんとに真っ直ぐ立てて書いてました」「(書いたスピードは)非常にゆっくりだったと思います」「(それで滑るのを動かないように押えたということですか)ええ。また、手のひらで押えなかったので書きにくそうだったので」「(丁寧な書き方だったですか)そうですね。丁寧に見えました」「(字の大きさは)ほかのお客さんに比べたら小さいなって感じました」などと具体的で臨場感があり、T自身が公判廷で当時の小島と名乗る人物のとった姿勢を明確に再現できたこととあいまって、同証言の信用性を高めるものである。右の電磁弁の販売状況及びTの供述する前記サインの方法、態様等に照らせば、Tの印象に残ったとの供述は十分首肯できる。

そして、Tは、さらに、小島と名乗る客の全体的印象、特徴について、「(歳は)三五から四〇くらい。(身長は)一六五くらいかなと思うんです」「(髪は)天然パーマのような感じ。ぴしっと分けた感じではない。七三くらいに分けてたんですけれども。そんなちりちりじゃないですけど、ちょっとウェーブがかった。天然パーマかなという感じの。短くはなかったです。長髪ではないです」「唇が少し薄めで、あと、頬の辺が少し肉付きがよかったかな」「ちょっとふっくらというか、えらがちょっと張ったような」「茶色っぽい洋服を着てたんじゃないかということを(警察官に)話しました」と証言しているが、同証言の内容は、詳細な弁護人の反対尋問に対しても一貫して維持され、また、被告人からの「ふっくらとしていたというふうなイメージが今あるのかどうか」との尋問に対し、Tは、「(被告人を見ながら)でも人間、日が経てば変わりますから。今はそんなに…。私が感じたほどふくらんでいないとは思います」と証言しているところから明らかなように、同証言は、自ら体験した者でなければ供述し得ない内容のものであり、この点からも信用性が高いといわなければならない。

3  写真面割手続等の適否

(一)  Tの証言、本件の捜査に当たった警察官である証人S5(第八五回、第八六回)の証言等を総合すると、捜査機関のTからの事情聴取等の経緯は以下のとおりであると認められる。すなわち、

昭和五九年一一月二七日、電磁弁の販売に関する捜査に従事していたS5らは、前記シーケーディ蒲田営業所で、前記小島名義の物品受領書を発見し、販売担当者であったTに、同女が発行した物品受領書であることを確認した。翌二八日、S5らは、右営業所で、Tから事情聴取をし、その後、符一〇の写真帳を用いて写真面割りを行ったところ、Tは第三分冊の一七の右下写真(被告人)を抽出した。同年一二月四日、S5が、Tから事情聴取をし、その際司法警察員調書を作成した。

昭和六〇年一月一七日、麹町警察署で、東京地方検察庁の検察官がTから事情聴取し、符合二の写真帳を用いて写真面割りをし、Tは一一〇番と一三四番(いずれも被告人)を抽出した。その後、検察官調書を作成した。

同年五月二日、検察官がTから事情聴取をし、警視庁で被告人の面通しを行い、同日、検察官調書を作成した。

(二)  警察官の写真面割り

以上のうち、一一月二八日の写真面割りの状況について、さらに検討を加える。

Tは、「電磁弁を一〇個販売したことについて、昭和五九年一一月ころ、警察官から事情を尋ねられたことがある。その際、物品受領書を見て、だんだんと販売の状況等を思い出した。私が覚えていることを話したが、その内容は先ほど述べたのと同じである。話をした後、警察官から、符合一〇の写真帳三冊を見せられた。私が「あまりよく覚えていないから、見てもよく分からない」と言ったので、「じゃあ、なんか見たことがあるような人がいたら、何枚でもいいですから選んで下さい」と言われて、それぞれ一枚ずつ確認して選んだ。その中から、昭和五九年八月一日の客と似ているということで、第三冊目の一七の右下の一枚を選んだ。似ていたところは、年齢的なところとほっぺたの肉付きというか、えらの感じである。迷わずに選んだ。唇が薄いことや髪型についても前述の記憶から選んだ。写真帳に予め印がついているとか、警察官から八月一日のお客さんが必ずいるはずだとか、この写真帳に載っている人がどういう人であるかの説明などはなかった」旨供述している。

また、本件の捜査に当たった警察官である証人S5(第八五回、第八六回)は、当公判廷で、「私は昭和五九年一一月二八日午前一〇時半ころ、シーケーディ蒲田営業所に赴き、Tに対し事情聴取及び写真面割りをした。まず、約一時間、小島について、年齢、身長、体格、着衣、頭髪、容貌等について事情聴取をしたところ、Tは「長身一六五ないし一七〇センチメートル、茶色っぽい上衣でノーネクタイ、頬の感じがふっくらしている、唇が薄くて大きい、髪型もきちんと分けていない。小島は左肘で物品受領書を押えて、ボールペンを強く握り、立てるようにしてゆっくりサインした」などと説明した。その後、私が符合一〇の写真帳作成報告書添付の写真帳を示して、「今お伺いしてきた小島さんという方がこの写真の中にあるかないか見ていただけないでしょうか」と言うと、Tは「あまりよく覚えていないんですけども」というような何かためらうようなことを言ったが、私は、事情聴取している限りでは、Tは、小島なる人物について非常によく覚えている感じを受けたこと、また、事情聴取している際のTの受答えが非常に慎重という感じを受けたことから、慎重な性格だからそう言うのだと思ったので、私が「必ずしもこの写真帳の中にあるわけじゃない。見たことがあるという程度の記憶でも結構ですから、二枚、三枚になっても構わないから気楽に見ていただけないでしょうか」と言うと、Tは見ることを承諾した。自分の机で、一ページ、一ページゆっくりと写真を見ていたが、第三の一七のところで、めくる手が止まってしまって、ぐっと身体を乗り出すようにして写真帳を見ていた。「この人を見たことがある」と言ったので、「どの人ですか」と伺ったら、先程の右下の写真を示して、「この人です」と言った。「見たことがあるって、小島さんですか」と伺うと、Tはじいっと写真を見ていて、「さっき言った、頬のふっくらとか、唇が薄くて大きいってこんな感じなんですよね。そっくりなんですよね」ということでじいっと見ていて、「小島さんだと思います」と言った。私が髪型や年齢を確かめると、写真を見ながら、「髪型とか年齢なんかもこの写真の感じですね」と言った。第三の一七以降の写真もその後引き続き見たが、Tは別の写真を選ばなかった。写真を見終わった後、私が「いかがですか」と尋ねると、Tは考えた上、「やはりさっきの写真の人ですね」と言った。さらに、私が第三の一七のところを開いて、もう一回見て下さいとお願いして、「この写真の人が小島さんですか」と尋ねると、Tは、写真をじいっと見て、「頬とか唇なんかはそっくりですし、小島さんだと思います」と言った。私が確認すると、写真をじいっと見つめて、「断定はできませんけど、この人が小島さんだと思う」と言った」旨供述している。

以上のT及びS5の供述は概ね一致しており、同日の写真面割りの状況は、両名が供述するとおりであったと認められるところ、右状況に照らせば、S5がTに対して行った指示には問題はなく、暗示誘導等をしたことはなかったものと認められる。

また、Tが右写真面割りに際して、「余りよく覚えていない」と述べたのは、T自身が証言しているとおり、はっきり全部覚えていないと写真を見てもしょうがないと思ったからであり、小島と名乗る客の容貌についての記憶が余りないという趣旨ではないのであって、Tが十分な記憶がないのに写真選別に臨んだものとはいえない。

S5がTに、「見たことがあるような人」と言ったのに対し、Tは、そのとおり素直に見た旨の供述もしている。しかしながら、右のT及びS5の両証言によれば、右写真面割手続が、小島と名乗る客の写真選別のために行われていたことはTも当然に理解しており、また、実際にTは、小島だと思う人物の写真を選別しているのであって、Tは、言葉どおりに、「これまでに見たことがあるような人」の写真を選別したのではなく、小島の写真を探して、選別したものと考えられ、S5の右指示は写真選別の当否に影響を及ぼすものではない。

また、Tの供述中、「第三分冊の一七の右下の写真を選ぶときに、まず、どこかで会ったことがある人だということで選んで、それでどこで会ったことのある人かなといろいろ考えていった。友人、親戚、買物に行く店の店員、営業所で会った人などを順に考えていって、その結果選んだ」旨供述する箇所がある。しかしながら、Tは、「頬と唇が似ているとして右写真を選んだ。写真面割りの際に一時間ないし二時間考えたが、この人が八月一日の客であるとの記憶を喚起したのは、写真を見て早いうちであり、その後は慎重に選びたいのでいろいろ考えていた時間であるが、その結果最初に出た結論は変らなかった」旨の供述もしている。このことを総合して考えれば、Tの証言する趣旨は、写真を見て、どこかで会ったことのある人だという印象を受けるとともに、それと前後して、頬、唇等から小島であると考えたが、間違えているといけないので、ほかのところで会った人でないか、いろいろ思い出してみて確認をしたということと理解するのが自然であって、Tによる写真選別は、L1(第一二二回)及びL2(第一二二回)が証言するような消去法的なものではない。

さらに、写真帳の内容の当否を検討するに、証人M1(第一〇九回)、同M2(第一一四回、第一一五回)、同M3(第一一七回)の各供述によれば、符一〇の写真帳の作成経緯は、以下のとおりであると認められる。すなわち、

昭和五九年一〇月、本件捜査本部のM4警視から写真面割りに使う写真帳を作成するようにとの指示を受けて、M2警部補が、警視庁公安一課のM3巡査部長に、被疑者写真のある中核派の構成員で現在も活動中と認められる者のなるべく鮮明な写真を出して欲しい旨依頼して、当時公安一課の事務室にあった中核派活動家の写真を集めたキャビネットから写真を抽出してもらって入手し、他府県の写真をまとめたこと以外は順不同で整理した上、写真を上から順に、同一人物は同じページに貼るようにという旨だけ指示して、M1に符一〇の写真帳を作成させた。

以上の経緯によれば、符一〇の写真帳を作成するに当たって、特定の人物が選別されるような作為を警察官が加えたことを窺わせる事情はない。

符一〇の写真帳は、三六四枚の写真から構成されており、各写真には、被疑者写真、免許証写真等複数の種類のものが含まれて、その規格は統一されておらず、また、その被写体の人物の性別、年齢、容貌特徴もその作成の経緯から様々である。しかしながら、写真の枚数が右のとおり非常に多いこと、被告人と同程度の年齢、同様の容貌特徴を持った人物の写真も含まれていることに照らせば、この写真帳が面割手続に用いる物として不適当なものであったとはいえない。

ところで、この写真面割りは、Tに対する最初の写真面割手続であるが、Tが小島に電磁弁を販売してから約四か月後である昭和五九年一一月二八日に行われたものであり、その時点で、Tが小島に対する販売状況、同人の容貌等を果たして記憶していたかは検討を要する。

この点、Tは前記のとおり、「物品受領書を見せられてだんだん思い出した。電磁弁の販売数量と小島のサインの仕方から印象に残っていた」旨供述するところ、シーケーディ蒲田営業所の通常の販売パターンからすると、電磁弁一〇個の現金売りは特異な出来事であったことは間違いなく、販売員のTにとって関心を惹く出来事であったことは明らかである上、物品受領書には、販売数量等の記載があるほか、受領印欄の「小島」のサインは、その線の震え方など非常に特徴のあるものであるから、これを見ることによって、Tの印象に残っていた小島と名乗る客への販売状況及び同人の容貌等の記憶が喚起されたことは、十分首肯できるものである。

加えて、写真面割りに先立ってされた事情聴取の際に、Tが小島の容貌特徴について具体的に供述している内容に照らして、この時点で、Tが写真選別をするのに十分な記憶を有していたものと認めるのが相当である。

(三)  検察官の写真面割り

Tは、昭和六〇年の一月一七日、検察官の取調を受け、その際、符二の写真帳で写真面割りをし、一三四番と一一〇番の写真(いずれも被告人)を選別し、一一〇番の写真は年齢的に若く、一三四番の写真が八月一日の客の印象に近い旨供述している。Tの供述によると、同人は検察官に対し、小島なる人物の特徴につき記憶していることを話した後に写真面割りを行い、この時の検察官の指示に問題は見られないのであり、また、M2の証言に照らし、右写真帳の作成に当たって、作為が加えられた事情は窺われない。

(四)  面通し

Tは、昭和六〇年五月二日、警視庁の面通し室で、被告人の面通しを行い、その時の印象として、「ずいぶん頬がこけてしまったなという感じを持ったが、八月一日の客と同じだと思う。違うというところはないので、断言できないが、同一人物だと思う」旨供述している。Tの証言によると、面通しの際、取調官から誘導、暗示等を受けたことはないというのであり、この手続に不適切な点は認められない。

4  Tの供述する特徴と被告人の実像との一致

関係各証拠によれば、被告人は昭和五九年八月一日当時、四〇歳であり、被告人の供述によれば身長は約一六五センチメートルであって、前記Tの供述する小島の年齢、身長と符合するほか、Tの述べる小島の顎、頬、唇の特徴は被告人のそれに一致している。

5  Tの供述状況

Tの証言は、第二八回ないし第三〇回の三回の公判期日にわたって行われたが、その内容は一貫しており、詳細な反対尋問に対しても動揺していない。また、その供述態度は慎重であり、過大な表現等その供述の信憑性を減殺させるような態度は見られない。

また、弁護人から自己矛盾供述として提出されたTの検察官調書二通(〈証拠〉)、司法警察員調書一通(〈証拠〉)を検討しても、その供述の中心とはいえない部分にわずかな変遷が認められるに過ぎず、右各調書によってT証言の信用性は何ら減殺されるものではない。

6 心理学鑑定

(一) L1作成の鑑定書(〈証拠〉)及び同人の証言(第一二二回)によれば、同人は、Tの証人尋問調書、検察官調書、司法警察員調書、S5の証人尋問調書等を鑑定資料として、Tの犯人識別供述の信用性について、心理学的見地から鑑定し、「T証人は、小島との応対場面を、一連の具体的な生のエピソードとして想起した可能性は絶無に等しく、T証人は小島の顔貌を生の記憶として想起し得ておらず、T証人の犯人識別供述は、心理学的分析の結果、著しく信用性に乏しい」との結論を出している。しかしながら、右L1鑑定は、その前提とする諸事情のうち、蒲田営業所における電磁弁の販売状況の中において右小島への販売数量が持つ意味、写真面割りの際S5がTにした指示の意味、Tが被告人の写真を選別する過程で言った「ほかで会ったことがないから」ということの意味等について、既に判示したところとは異なる独自の見解を採るものであって、その前提において不適切といわざるを得ず、右結論は採用することができない。

(二) L2作成の鑑定書(〈証拠〉)及び同人の証言(第一二二回)によれば、同人はTの証人尋問調書、検察官調書、司法警察員調書、符一〇の写真帳作成報告書の写、M2及びM3の各証人尋問調書を鑑定資料として、右符一〇の写真帳の構成の適切さ及びTの写真面割りによる犯人識別供述の信用性について、心理学的見地から鑑定し、「Tの写真面割りに用いられた符一〇の写真帳は、その特徴度の分布において人為的なバイアスがみられ、特に、第三分冊中の一七の特徴が著しく強調されており、面割写真として著しく不適切な構成となっている。Tの写真面割りによる犯人識別に際して、警察官が同人に与えた指示は、心理学的にみて、きわめて不適切であった。また、Tが犯人同定至る思考回路で用いた論理は、論理的に間違った粗雑な論理である。以上の理由により、目撃から約四か月後で問題の客の容貌についての記憶が曖昧なTの写真面割りによる犯人識別は、人為的にバイアスをかけた写真帳、警察官の間違った指示、証人の論理的に間違った思考回路、の三つの要因の相乗効果によって作り出された、全く根拠のないものである」旨の鑑定結果を出している。しかしながら、右鑑定も、その前提とする諸事情のうち、蒲田営業所における電磁弁の販売状況の中において右小島への販売数量が持つ意味、S5がTにした指示の意味、Tの言う「ほかで会ったことがないから」ということの意味等について、既に判示したところとは異なる独自の見解を採るものであって、その前提において不適切といわざるを得ない。また、同鑑定は、その過程で、①写真帳の特徴度に関する評定分析・実験として、写真の種類別に分類し、その構成を三つの分冊ごとに系列化して分析するもの、②一五名の評定者を用いて、第三分冊の心理学的分析をもって検証を行うもの、③六〇名の被験者を用いた第三分冊による写真選定実験、の三つの実験を行っている。このうち①の実験から、同鑑定は、右写真帳には人為的なバイアスがかけられたものと判断するが、右写真帳はその作成経緯からみて、人為的な工作を加えられたものと認められないことは前記のとおりであるから、この部分も不適切である。また、②の実験については、面割写真の特徴分析に使った四つの分析要因(推定年齢、鮮明度、写真の色調、顔の面積が写真の枠に占める割合)だけでは写真帳の特性を十分に分析できないのに、他の分析要因(例えば、髪型、輪郭、肉付き、顔の部位等)の検討を省略しているという不備が認められる。さらに、③の実験は、大学生六〇名に、符一〇の写真帳を示し、「ここ数か月のうちにあなたがどこかで見たことのある人」を選別させるものであるが、右実験においては、右写真の被写体の人物の容貌に特徴があるか、ありふれた顔であるかなどの点を全く考慮していないこと、実際には目撃体験をしていない大学生に選別を求めており、面割作業の目的の理解度と自己に課せられた役割の重大性という点において、Tと同じ水準にあったとは到底認められないこと等に照らすと、この実験結果は、写真帳の構成がTの写真選別に与えた影響を示すのに十分なものであるか甚だ疑問である。

以上の諸点を考慮すれば、右L2鑑定も採用することができない。

7 まとめ

以上検討してきた、観察条件、記憶の状況、犯人識別に至る経緯、供述の内容及び状況等を総合すれば、昭和五九年八月一日、前記シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所において前記電磁弁一〇個を買った客が被告人であるとのTの証言は、信用することができるものといわなければならない。

第三N証言の信用性の検討

一  N証言の要旨

証人Nは、要旨次のとおり供述している(第三一回、第三二回)。

「東京都千代田区〈住所略〉所在のシーケーディ東京販売株式会社秋葉原営業所に勤務し、圧力調整器の販売等に従事した。

昭和五九年八月一日午前一〇時から一一時くらいの間に、シーケーディ東京販売株式会社秋葉原営業所に、坂田工業の坂田という男がレギュレーター(圧力調整器)二〇〇一―四Cを五個買いにきた。この日の朝礼が終わって、席についてしばらくしてから、営業所の二階にいる松本さんから、「お客さんがレギュレーター五個を取りに来る」との内線電話があり、その後坂田という客が営業所に来た。

その男は、それ以前も以後も店に来たことはない。坂田工業という得意先はない。この男は夏なのに長袖を着用していたこと、サインの仕方が変わっていたこと、販売した圧力調整器の個数が多かったことから覚えている。伝票に得意先名を記載するために名前を聞いたところ、「上様で」と言ったので、「コンピュータに打ち込むのでそういうわけにはいかない」と答えると、なかなか言わなかったが、「坂田工業でお願いします」と返事をしてきた。サインの仕方は、物品受領書を押えないでボールペンを縦にしたような感じでゆっくりとサインをした。客が店にいた時間は五分くらいだと思う。話をする時はその客の顔を見て話をした。客がサインをする時は物品受領書や客の顔を見ていた。その物品受領書は符一二のものである。

その男の歳は四〇歳くらい、身長は一六五センチメートルくらい、髪はパーマか天然かよく分からないがちょっとパーマがかったウェーブがかった感じだった。くっきりとではなく横に大雑把に分けていたようだった。目に脂肪がない感じで奥目がかった感じだった。唇は分厚くなかった。顔の輪郭は丸顔という印象はなかった。

茶系統の色の長袖の服を着ていて、ネクタイは締めていなかったと思う。眼鏡を掛けていたかどうかはよく覚えていない。当時の私の視力は0.4だった。

昭和六〇年五月に二回被告人を見たが、二回とも同じ印象で、坂田という客と、髪型とか目の感じとか全体的に似ていると思った。ただ、坂田という客は、もう少し頬に肉があるような感じだった。

法廷(第三一回公判、昭和六二年三月三一日)にいる被告人は、髪型と目の感じが坂田と名乗る男に似ているような気がする。印象に残っている坂田という客と被告人とで違う点は別にない。坂田と被告人が同一人物であるとは言っていない」

二  信用性の検討

1  Nは、坂田と名乗る客の容貌等の特徴等について供述するものの、その内容は、年齢、身長、髪型のほかは、結局、前記のとおり「目に脂肪がない感じで奥目がかった感じだった。唇は分厚くなかった。顔の輪郭は丸顔という印象はなかった」というにとどまり、被目撃者を特定するのに十分な容貌特徴を述べているものとはいい難い。すなわち、Nは、坂田と名乗る客の顔の形、顎、口、唇等の特徴につき具体的な供述をしていない。「顔の輪郭が丸顔という印象はなかった」といっても、一体どのような顔の形であったか分からないし、「唇は分厚くなかった」といっても、被告人の特徴である「唇の薄さ」を指摘するものではない。しかも、最初に作成された昭和五九年一二月二六日付司法警察員調書(〈証拠〉)では、「顔の輪郭はどちらかというと丸顔」と供述する一方、唇の特徴に関する供述はなく、昭和六〇年一月一九日付検察官調書(〈証拠〉)には、顔の形や唇の特徴についての供述は見られず、同年五月一日と二日の被告人の面通し後に作成された同月二日付検察官調書(〈証拠〉)では、「甲(被告人)の顔の輪郭も、ほんの少し頬に肉がついていれば坂田と名乗っていた人に似ていると思った」「鼻や口についても、坂田と名乗っていた人の鼻や口がどんなであったかはっきりした記憶がない。ただ、坂田と名乗っていた人の唇は厚かったという記憶はなく、やや薄めに見えた甲の唇を見て、そういえば坂田と名乗っていた人もこんな唇だったかなと一瞬思ったが、この点については自信はなくはっきりしたことは言えない」旨供述しているのであって、右のようなNの捜査段階における供述に照らすと、Nは坂田と名乗る客の顔の形や唇の特徴についての具体的な記憶はなく、前記の「丸顔という印象はなかった」、「唇は分厚くなかった」ということ自体、被告人の面通し等による影響があったのではないかと疑われるのである。

2  また、Nは、法廷での証言の際に、被告人が右坂田と同一人である旨を確認していない。

そして、N及び証人S5(第八五回、第八六回)の各供述によれば、捜査段階におけるNの供述状況は以下のとおりである。すなわち、S5ら警察官が、昭和五九年一〇月二四日、同月二九日、同年一一月二八日、同年一二月二六日に、Nから事情聴取をし、右一二月二六日の聴取の際には供述調書を作成した。右のうち一〇月二九日に、S5らは符一〇の写真帳をNに示し、坂田と名乗る客の写真面割りを試みたが、Nは写真を選別せず、さらに、S5が一一月二八日Tによる写真面割りを終えた後、符一〇の写真帳をNに示し「坂田工業の坂田さん一人に絞って見ていただけないか」と言って写真面割りを行ったが、Nは一枚ずつ写真を見た後「分からない」と答えて、特定の写真を選別しなかった。また、検察官は昭和六〇年一月一九日及び同年五月二日、Nから事情聴取をし、供述調書を作成したが、このうち一月一九日には写真帳を示して、写真面割りを試みたが、Nは写真を選ばなかった。同年五月一日、同月二日の両日、Nは警視庁で被告人の面通しをし、髪型とか目の印象とかが、坂田に少し似ていると答えたが、同一人物であると断定はしなかった。

なお、Nの証言によれば、警察官による右一〇月二九日及び検察官による各写真面割りの際には、坂田と名乗る客に似ていると思った写真があったということであるが、それがどの写真か、また、その写真が何枚あったかについては何ら明らかにされていない。

以上によれば、Nは、公判廷での証言の機会のほか、捜査段階における、三回の写真面割り、及び二回の面通しのいずれかの機会においても、被告人が右坂田と同一人である旨を確認していないものである。

Nは、右のように髪型及び目の印象について似ているとは供述するものの、全体として同一人であることの判断を示していないのであるが、供述者の目撃し記憶している被目撃者の容貌等の特徴をそのまま言語化して供述することは困難であり、特徴を的確な言葉で表現することができなくても、再認できる場合があるから、目撃者による被目撃者の同定については、目撃者の述べる個々の容貌特徴の一致のほか、目撃者がその全体的総合的な判断で、被目撃者と対象者が同一人であると再認することが重要であり、Nがそのような確認ができなかったことは、同人の記憶が十分にはないことを窺わせる。

検察官は、Nが、前記のとおり写真面割りをした際、坂田と名乗る客と似ているような写真があった旨供述し、さらに「やっぱり選ぶということは、私にとって不安なことでしたし」、「新聞沙汰の大きな事件ということもありましたし、自分もその事件に巻き込まれるような気がして不安でした」と供述しているところを捉えて、Nは、事件に余り関わりたくないとの思いで警察官、検察官の事情聴取に応じていたものであり、事情聴取には自己の記憶にあるところをありのまま全部供述したものとは認められないと主張しているが、Nの証言内容等からみて、右の見解は独断というほかない。

3  さらに、Nは、坂田と名乗る客を覚えている理由の一つとして、サインの仕方が変わっていたことを挙げ、Nの昭和六〇年一月一九日付及び同年五月二日付各検察官調書(〈証拠〉)にはその趣旨の供述は見られるが、昭和五九年一一月二八日にS5がNにサインの仕方について聞いた際、同人は覚えていない旨答え、最初に作成された昭和五九年一二月二六日付司法警察員調書(〈証拠〉)でも、「どのようなサインの仕方をしたか(中略)ということはよく覚えていません」と供述しているのであって、このような供述の変遷に照らすと、右の記憶の理由の一つというサインの仕方についてNの記憶が明確なものであったか疑問が残る。

4  以上の事情に照らせば、Nの坂田と名乗る客の容貌等についての記憶は、客の年齢、身長、髪型、目の感じを除き明確なものではなかったものといわざるを得ない。

なお、検察官は、T証言とN証言の各内容は相互に供述の信用性を補強し合っているところ、小島なる人物と坂田なる人物とは、年齢、身長、髪質、髪型、唇の厚さ及び着衣の色の点でほとんど一致していること、このような極めて類似した特徴を有する小島なる人物と坂田なる人物が、同一日(昭和五九年八月一日)に、予め電話をかけて該当部品を注文するという同じ方法を用いて各営業所に赴き、現金客としては珍しく、多量の商品を買い求めている上、各営業所で物品受領書の受領印欄にサインをするに当たり、ほとんど同一態様と評すべき特異な動作をしていることからみれば、小島なる人物と坂田なる人物が同一人物であることは何人も否定し得ないところであると主張する。

まず、坂田なる人物の唇の厚さ及び物品受領書にサインをした際の動作についてNの記憶が明確でないことは既に述べたとおりである。Nは坂田なる人物の着衣の色につき「茶系統の色だった」と供述しているが、Tは小島なる人物の着衣の色につき、検察官の主尋問に対しては「服の色は覚えていない」と供述し、弁護士の反対尋問に対しては「青系統ではなかったような気がしたので、茶色っぽい洋服を着ていたんじゃないかということを(警察官に)話した。それも余りはっきりしたことではない」旨供述していて、着衣の色につき明確な記憶を持っているとはいえないのである。また、Nは、「目に脂肪がない感じで奥目がかった感じ」と供述するのに対し、Tは「目付きとか鼻、耳の形は覚えていない」旨供述し、坂田なる人物と小島なる人物の目、鼻等につき共通の特徴の指摘が見られない。

右のような点に照らすと、年齢、身長、髪質、髪型がほぼ一致していることや、検察官の指摘するその余の事情を考慮しても、小島なる人物と坂田なる人物が同一人物であると断定するのは早計であるといわなければならない。

第四T2の証言の証明力

一  証人T2は、既に触れたとおり、小島と名乗る客が、蒲田営業所に来訪した経緯、その際のTらの応対状況の概要について供述した上、右小島の容貌等については、「年齢は三〇過ぎで四〇前後かと思う。身長は、立っているTと比べ、同等くらいか、ちょっと高いくらいかと思う。髪は、普通の髪の毛で、とくに短くも長くもなかったと思う。軽く七三に分けていたような気がするが、はっきりは覚えていない。顔は、とくに印象に残ることはない。特徴は、傷があったとかそういうことは、全然ない。眼鏡は、掛けていないか、掛けていても、銀縁の目立たないような感じだったと思う。服装は、工場の方の作業着とかでなくて、もっと軽い普通着るような服装だったと思う。ぴしっとしたスリーピースとかではなかったと思う。ネクタイもしてなかったと思う」と供述している(第二八回)。

二  右証言は、小島を特定するのに十分な容貌特徴を述べているとはいえないほか、同証人は公判廷で被告人と小島との同一性の有無は断定できず、また、捜査段階においても、被告人の写真を含む写真帳を示されて写真面割手続を行ったり、被告人の面通しをした際も、小島の顔をよく記憶していないため、写真選別及び同一性の有無の判断ができなかったものであるから、同証人の供述は、被告人と小島との同一性の判断の直接の証拠とし得ないことはいうまでもない。しかしながら、前記来訪の経緯、Tの応対状況及び小島の年齢、身長、髪型等についての供述は、具体的かつ詳細であって、その信用性を否定すべき事情も認められないので、その限度で証明力を有し、右の点につきT証言を裏付けているものといえよう。

第五結論

以上説示したとおり、Tの証言によれば、被告人が、昭和五九年八月一日、シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所において、「協和電機の小島」と名乗り、シーケーディ株式会社製の電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)一〇個を購入したことは証明十分であるが、Nの証言により、被告人が同日、同会社秋葉原営業所で圧力調整器(二〇〇一―四C)五個を購入したという検察官の主張事実を認定することはできないといわなければならない。

なお、検察官は、物品受領書に残された「小島」、「坂田」の筆跡鑑定により両者は同一人の筆跡であると主張するが、「小島」、「坂田」が同一人の筆跡とは断定し得ないこと、また、弁護人は右電磁弁を購入したという八月一日につき被告人のアリバイを主張するが、これが採用できないことは、いずれ項を改めて説明することとする。

六 八月一日のアリバイの主張について

第一弁護人は、被告人がシーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所で電磁弁一〇個を購入したとされる昭和五九年八月一日については、被告人の完全なアリバイがあるとし、当時の被告人の頭髪についても、スポーツ刈りにした直後で、Tの証言するような髪型ではない旨主張するので、以下、検討する。

第二被告人のアリバイ主張の要旨

被告人は、昭和五九年八月一日のアリバイ関係について、要旨次のとおり供述している(第七六回、第七八回、第七九回、第八二回、第八三回)。

「昭和五九年七月二五日午前一一時ころ、八王子で毎週水曜日の「前進」の受取りのためにK3に会った。その三〇分前にK2に会い行動をともにした。次週の水曜日である八月一日の「前進」の受取場所を毛呂山町福祉会館と決めた。当時居住していた小田原のマンション(○○ビル三〇二号室)の家賃の不足分三万円をK2に貸してくれるように頼み、二九日、流山総合運動公園で、K2に会い、お金を借りた。帰り際、安い床屋を何軒か教えてもらったが、帰途にそれとは別の川崎駅近くの「コトブキ」という床屋に行き、散髪したが、少し長めのスポーツ刈りと頼んで、それまでかなり長かった髪が予想していたより短いスポーツ刈りになった。散髪した人は、男の人だった。七、八台ある理髪台のうち入口から二、三台目だった。

七月三一日、常磐線北小金駅付近の喫茶店で、K2から電話連絡を受け、八月一日は相模原市内のディスカウントストアー「アイワールド」相模原店の駐車場で午前八時に会うことになった。

昭和五九年八月一日午前六時ころ○○ビルを出て、午前八時ころ、前記「アイワールド」駐車場でK2と会った。K2から「髪を随分短くしたね」と言われた。K2の車で毛呂山に移動した。毛呂山町福祉会館には午前一一時一〇分程度前に到着し、K3を待った。一一時ころK3が車で来て、挨拶を交わした後、五分くらい車で移動して武蔵野霊園付近に行き、K2がK3の車に乗り込み、「前進」を受け取った。一二時一五分前ころK3と別れて東松山方面に向かい、午後一時ころ、「ヤンブー」というコインスナックに行き、昼食をとった。二時過ぎころまでいて、午後四時ころ、上尾運動公園に行って他の四人すなわち、K1及び名前を特定したくないA、B、Cと合流し、当日の学習会の会場の旅館へ行き、宿泊した。

その旅館は、上尾の秀月別館、本館、三楽荘の印象があり、調査してもらったが、裏付けがとれなかった。学習会に使った「前進」に全学連大会の記事があったという印象がある。そして、スポーツ刈りにしたことが冷やかし半分で話題にされ、ふけて見えるとか、全学連大会の記事と対比して歳をとったものだとか話題になった。AとBが八月三日に三浦半島に海水浴に行く予定があり、一緒に行こうと強く誘われ、行くことにした。

八月二日は、AとBの車に便乗し、相模原で降り、家族旅行の予約を電話でした。国民宿舎八方台休暇センターを中尾正三の名義で、ふだんメモに書き留めていた使用されていない電話番号を利用して宿泊の予約をした。午後三時ころ、A、Bと合流し、三人で横須賀市街の旅館で宿泊した。

八月三日は長浜海水浴場に行って、Bに泳ぎ方を教えた。

家族旅行については、八月一二日、高崎線の新町駅付近で車で来ていたK2と会い、喫茶店で妻子と合流した。K2には、予定どおり、家族旅行の後の○○ビルからの引越しの手伝いを日を伝えて頼んだ。K2に高崎まで送ってもらった。車中で妻から「髪を随分短くした、余り似合わない」と言われ、「これでも随分長くなったほうなんだよ」とやりとりした。八方台休暇センターには午後七時ころ着いた。中尾正三名義で宿泊し、料金は三日分前払いした。旅行では写真を撮り、符号三八の写真③、⑤、⑥は妻が、⑧は子供の拓也が撮影した。

八月一五日は、柏崎の鯨波海水浴場へ行き、海水浴をしたが、そのとき、少年が溺れて死ぬ事故があり、妻とともに救助をした。

溺れた少年の親戚らしい人が周囲におり、埼玉県の方から来ており、大人のグループが何人かの子供のグループを伴って来ていると話していた。女性からも、男性からも「本当に必死になって助けなきゃならない」という趣旨の発言があった記憶がある。女性の年齢等の特徴は覚えていない。鮫波駅は無人駅かはっきり印象がない。

八月一七日は、○○ビルからの荷物の搬出のためレンタカーを借り、不動産屋に解約の連絡をした。貸室賃貸借契約書(弁一五)の左上の部分には、その際の清算の書込みがあり、予告不足一七日分との記載がある。

「前進」の学習会については、「前進」の発行が月曜日で、なるべく早く受け取るということで、毎週水曜日の夜泊まり込みで学習会をしていた。受取りの時間は水曜日午前一一時に固定していた。受取りはずっと私とK2がやっていた。確実に受け取るため、二人態勢としていたが、二人とも都合が悪いことはなかった。前進社の配布担当者はK3で、八月一日もそうだった。曜日と時間を固定したので、警察との関係で、受取場所はその都度変えていた。確実のために予備の場所も決めていたが、K3が来られないことはなかった。メンバーは私、K2、K1のほか、A、B、Cの三人がいた。一年数か月の間、メンバーは変わっていない。

昭和六二年二月一三日の公判期日に電磁弁を購入した日として八月一日の問題が出てきたが、その後の最初の弁護人との接見日である二月二五日には、八月一日は水曜日で「前進」を受け取り学習会をした日に間違いないと話したが、「前進」の受取場所である毛呂山のことは思い出さなかった。二月末か三月初めに思い出し、弁護人には三月一三日に伝えた。思い出したきっかけは、○○ビルからの引越しを七月末に予定していたができなかったこと、喫茶店で八月一日の「前進」の受取場所を決めたことを思い出し、相模原でK2の車と早朝合流したことを思い出し、それが八月一日だと思い出し、受渡場所が毛呂山のゾーンだとよみがえってきた。福祉会館は、自分からは思い出せなかった。武蔵野霊園は、霊園の脇に車を止めて受渡しをしたことまで思い出したが、名前は分からなかった」

第三八月一日のアリバイの検討

被告人の右の供述のうち、いわゆる家族旅行の関係については、七月下旬から八月中旬までの被告人の行動という点では八月一日のアリバイの立証の上で意味を有するが、一応独立のまとまりをもち、被告人の頭髪の状態という別の争点にも関連するので、後に検討することにして、まず、家族旅行以外の一連の経過について、関連する証拠を検討する。

一  関係者の供述

1  まず、K2は、八月一日のアリバイ関係について、要旨次のとおり供述している(第六五回ないし第六八回)。

「昭和五九年七月二九日午後一時ころ、流山市の運動公園で被告人と会った。小田原のマンションの引越しが七月中にはできなくなったという話を以前に聞いており、八月分の家賃の支払のため、三万円を貸した。その際、被告人に安い床屋を教えた。床屋に行くと言っていた。「前進」の受取りに行く前の事前の待合せ場所を、被告人の小田原のマンションにしたが、七月三一日に電話で確認することを決め、北小金の喫茶店で電話により「アイワールド」で会うことに変更した。八月一日は、午前八時ころに相模原市の「アイワールド」の駐車場で被告人に会った。被告人は、半袖、ネクタイ姿だったが、髪が非常に短かった。それまではパーマ気味のふわっとした髪型が多かったが、この時は、角刈り、スポーツ刈りに近い短い髪型だった。車で毛呂山方面に向かい、午前一一時一〇分前に毛呂山町福祉会館に着いた。初めて行ったが、被告人が地図を見て案内してくれた。後から車で来たK3と会った。K3が先導し五分くらいかけて武蔵野霊園裏に行き、そこで私がK3から「前進」を受け取った。その後、被告人と私は、K3と別れ、午後一時ころ、東松山市内の「ヤンブー」というコインスナックへ行って一時間くらい食事と休憩をとった。その時の話題として、私が貸した金で被告人が七月の家賃を払えてよかったということと、家族旅行の会場の予約が難しいということが出た。上尾の運動公園に行ったが、車中で、オリンピックで長崎宏子が残念な成績だったと被告人が話していた。午後四時にK1のほか、友人三名と会ったが、被告人の散髪のことが話題になった。六人で食事をした後、学習会場に行った。学習会では、「前進」の全学連大会の記事の関連で、被告人の髪型を見て我々も歳をとったと話した。AとBが、海水浴に被告人を誘った。学習会を終わってビールを一緒に飲んだが、何本くらい飲んだか覚えていない。

八月一日の学習会の会場については記憶がはっきりしない。

八月一日の宿泊場所は、弁護人にかなりの数を調べてもらった。上尾市、大宮市の旅館、ホテルを思いつくところを探してもらったが、特定できなかった。

以上の八月一日の事実関係を思い出した経過は、次のとおりである。

昭和六一年三月にK6と会い、八月初旬の部品購入が裁判で問題になっていることを初めて聞き、昭和六二年四月に、「前進」の記事でそれが八月一日と知った。まず思い出したのが、被告人の小田原のマンションの引越しが中止になったこと、「前進」の受取場所の事前の待合せ場所として「アイワールド」を思い出し、その後北上して毛呂山の福祉会館に行ったことを思い出した。福祉会館に実際に行き、付近を歩いてみて、武蔵野霊園も思い出した。その後東松山のスナック、上尾の公園を思い出した。実際に車で走ってみた。昭和六二年七月にK6に会ってそれを話し、昭和六三年二月一五日に一瀬弁護人に会って、八月一日の行動を話した」

2  K1は、八月一日のアリバイ関係について、要旨次のとおり供述している(第六二回ないし第六四回)。

「昭和五九年八月一日は、上尾市内で被告人らと夕方待ち合せ、旅館に行き、「前進」の学習会をして、翌朝解散した。その時の「前進」一一九七号(一九八四年八月六日付)には、第一面に全学連大会の写真があるが、その時、被告人の髪の毛が、どうしたのかと思うくらいの短い髪でやくざっぽく見えた。スポーツ刈りで角刈りに近いすべての毛が立つくらいの短さで、額が広く見えた。私とCがおっさんぽく見えると言ったら、ほかの人が、さっぱりしていていいと話題になった。AとBが三浦半島の方へ海水浴に行く話をし、被告人も行くことになった。当日の学習会場は、上尾市周辺の旅館かホテルだと思うが、どこだったか具体的に思い出せないし、初めて行ったところかどうかの記憶もない。

学習会の会場の手続をとるのは、前の週の学習会で決めていた。日程が合わないときも、毎週水曜日という曜日は動かさず、参加できない人がいると、五人でやったこともある。

八月一日の事実関係を思い出した経過は、昭和六二年一二月に弁護人に二度目に会ったとき、八月一日のことを聞かれ、学習会をやったはずだと答えた。その後図書館で当日の新聞の縮刷版を見て、記事に出ていた体操の森末選手が、ロサンゼルスオリンピックで三回転宙返り降りをしたのを、六人の学習会で皆とテレビで見た記憶がよみがえった」

3  K3は、要旨次のとおり供述している(第六九回)。

「当時は前進社発行の機関紙「前進」の配達の仕事をしていた。前進社のK4から頼まれて、毎週水曜日午前一一時に被告人とK2に会い、「前進」を六部渡していた。場所は会ったときに次週を決めるというふうにしていた。「前進」の休刊日は、お盆と正月の年二回である。

昭和五九年八月一日は、前進社から出発して、途中で車に乗り、午前一一時ころ、前の週に決めてあった毛呂山町福祉会館に着いた。迷いながら行ったので、遅くなった。既に被告人、K2は来ており、福祉会館の入口を出たところに立っていた。二人は手ぶらで、車の横に来たので、車で来ているのかと思った。挨拶の後、被告人が「移動しましょうか」と言ったので、行く途中で見た武蔵野霊園へ行く腹積りで、ついて来てくださいと言って先導した。K2が運転し、被告人は助手席に乗って着いて来た。武蔵野霊園の入口は狭かったので、裏の方へ回った。先に車を反転して止め、車外に出て、K2車が反転するのを誘導した。K2が降りて来たので、運転席に上半身を入れて、左後ろのドアロックを外して、K2を乗せた。私は運転席に座り、車内で「前進」六部を渡し、次週の受渡場所を打ち合せた。被告人は、車にとどまっていた。その日、被告人は、床屋へ行ったばかりだと思った。以前と変わってスポーツ刈りだった」

4  また、右各証人らが出廷するに至った事情については、K6が要旨次のとおり供述している(第七一回)。

「私は革命的共産主義者同盟の救援関係の責任者で、被告人の事件の関係を担当している。被告人の逮捕直後から、救援活動に入り、アリバイ立証関係で関係者との連絡をしてきた。K2とは、昭和六〇年五月七日、同年一二月、昭和六一年三月に会っている。三月には、八月初旬のことが裁判で問題になっていることを伝え、八月の行動について思い出して欲しいと頼んだ。その時、K2は、八月当時水曜日に被告人と一緒に「前進」を受取りに行っていたこと、被告人のマンションの引越しの手伝いをしたような気がすることを話した。次は、昭和六二年七月で、裁判の状況を話した。K2は、八月一日の行動を思い出したとして、同日午前八時ころ、「アイワールド」の駐車場で、被告人と落ち合い、K2運転の車で毛呂山町に行き、午前一一時に福祉会館でK3と会い、武蔵野霊園裏で「前進」を受け取り、夕方、上尾運動公園で四人の友人と落ち合い、その夜は前進の学習会のために旅館に入ったと言った。

八月一日というのは、その年の四月か五月に、「前進」の記事で、部品購入の日としてK2も特定して分かっていた。思い出したきっかけとして、五九年の七月下旬の被告人のマンションの引越しが中止になり、七月二五日の「前進」の受取場所について打合せる過程で、八月一日に相模原の方で被告人と会ったということから記憶喚起したと聞いている。

K3について、同人は一〇年前からの知合いであるが、弁護人からアリバイについてK3に確認するよう頼まれ、昭和六二年五月の初めに会った。当時K2と被告人に「前進」を六部、前進社のK4から受け取って渡していたこと、それが毎週水曜日だったことはすぐに答えた。毛呂山で渡したことはあるが、それが八月一日だったかどうかははっきりしなかった。その後昭和六二年七月に、記憶喚起した結果と、現地に行ってみて、八月一日毛呂山で渡したことを思い出したと言ってきた。

K1について、同人とは、昭和六二年一二月、K1自身が逮捕された事件で初めて会った。被告人の関係では、昭和六三年八月の弁護団会議で会った。

八月一日の宿泊場所の調査については、被告人、K2、K1から、上尾、大宮、その周辺を一〇か所くらい挙げられて、調査したが、旅館、ホテルの非協力的な態度、担当者の忘却、当時の記録廃棄、記録不正確などの理由で、結局、分からなかった」

5  「前進」の受渡方法については、K4が要旨次のとおり供述している(第七〇回)。

「前進社で販売と配布の仕事をしている。「前進」は、毎週月曜日に発行し、大半は手渡しで配布する。K2が、昭和五八年八月の終わりか九月初めころ、毎週水曜日に学習会をしたいので、「前進」を六部届けて欲しいと依頼してきた。それまでK2に「前進」を渡していた人が応じられないということで、K3に頼んだ。水曜日の午前一一時と決まっていたので、K3に場所をいろいろ変えて安全に渡せるように工夫しろと言ってあった」

二  検討

1  まず、八月一日当日の被告人の行動を裏付ける客観的な証拠は存在しない。

被告人は、公判廷で、「八月一日の宿泊場所は、大宮の三楽荘、上尾の秀月本館、別館ではないかと思って弁護人に調査してもらったが、裏付けは取れなかった」旨供述しているが(第七八回)、この三か所の宿泊施設について捜査したM1の証言(第一〇六回、第一〇七回)によると、上尾市宮本町の割烹旅館秀月本館、上尾市仲町の秀月別館、大宮市土手町のビジネス旅館三楽荘では、残されている当時の記録、関係者の記憶に基づき調査したが、昭和五九年八月一日夜、被告人ら六名が宿泊したという確認は取れていない。

この八月一日の学習会場が特定できないということは、九月一九日の関係では、同じメンバー、同じ趣旨の学習会の宿泊場所、宿泊状況について、具体的に場所を特定しているのみならず、領収証まで残されていることと対比すると、極めて不自然であるといわざるを得ず、宿泊場所の点がアリバイの立証の上で有する重要性、客観的証拠が存在しないことを考えると、八月一日当日のアリバイ立証には、極めて不十分なものが残っているといわなければならない。

2  右の被告人、K2、K1、K3の各供述については、それぞれ具体的エピソードを交えながら詳細に供述しており、その供述内容はほぼ一致している。

しかし、被告人、K2、K1、K3の四名は、いずれも中核派構成員又は同派と深い関係を有する者であり、その党派性を考慮すると、その各供述の信用性については慎重に検討する必要がある。

また、Pの証言(第一〇二回、第一〇五回、第一〇六回)によれば、K1は、平成元年五月五日に逮捕されたが、その際の同人からの押収証拠品の中に、「DINNER72」と標題のある茶封筒に本件の第七二回公判調書の写及び本件裁判の支援団体発行の「藤井裁判ニュース」が、同「DINNER73、74」と標題のある茶封筒に本件の第七三回、第七四回各公判調書の写及び「藤井裁判ニュース」がそれぞれ入っていたことが認められる。

右によれば、K1は、本件公判において関係者がどのような尋問を受け、どのように供述をしたのかを、公判調書を入手するなどの方法により、十分知り得、検討できる立場にあったと認められる。前述の関係証人の党派性からすれば、他の証人もそのような準備をして法廷に臨んでいたのではないかという推測もできないわけではない。

ところで、被告人、K2、K1等は、いずれも、学習会の他の三人のメンバーの氏名、住所等の個人の特定事項については、供述を拒絶している。被告人には黙秘権があるのでこの点について供述しないことの評価は差し控えるが、各証人に対しては、検察官の反対尋問、裁判所の補充尋問で、何度も供述を促され、また、証言拒否の制裁まで告知されながら、一切供述を拒む態度を貫き、ついに供述しないままで終わっている。結局、学習会に関連してはいずれもA、B、Cという仮名を用いて証言するのみであるため、各証人及び被告人の供述の内容を対比しても、各人の供述するA、B、Cが互いに同一人物を指しているのかどうかについては、検証する手がかりさえない状態である。

この点は、極めて問題であって、各供述はこの事実に関する限り、検察官の反対尋問を実質的に経ていないものといわざるを得ず、その信用性については、著しく減殺されたものと扱うべきである。

また、右の学習会参加者の点以外についても、右各証人の供述には、以下のとおり、信用性に問題がある。

K2の供述中には、八月一日に使用した車について、七月終わりころ借りた物と供述するのみで所有者の名前は言えないとする点、七月三一日の宿泊先はよく泊まる友人の家に泊まったが名前、住所は言えないとする点、八月一日の朝自動車を取りに行った駐車場の位置がはっきりしないとする点、八月二二日、同月二九日、九月五日、同月一二日の「前進」の受取場所については、覚えていないとする点、証人自身の生計の手段の点など、同証人の八月一日当日の他の供述部分と対比して当然記憶があり、証言できそうな点について、不明確な供述しかしないという不自然なところがある。しかも、右のうち七月三一日の宿泊場所の点、及び駐車場の位置の点は、八月一日の行動の出発点及び通過点になる関係にあり、K2の行動経過の信用性判断に際しては直接関連する事実であるところ、この点についても事実上の供述拒否により実質的には反対尋問を経ていないのであるから、信用性が低いものとして取り扱わざるを得ない。

K1の供述には、「前進」の学習会はその年の一二月で終わったが、理由は言えないとする点、八月一日の学習会の場面は覚えていると言いながら場所を思い出さない点、八月一日が素泊りだったかを覚えていないとする点など、不自然な点がある。

K6の供述には、弁護側の八月一日のアリバイ立証の準備に際してもA、B、Cの三名には連絡を取っていないとする点、A、B、Cの三名には、立証の準備段階で、氏名を出さない前提でも旅館名を思い出してもらうことなどが可能であると考えられるのに、それをしなかったという点などにおいて、不自然なところがある。

ところで、八月一日当日の学習会場すなわち宿泊場所については、被告人も、各証人の証言も上尾周辺とまでは供述しても、それ以上に、どの旅館、ホテルであったかについては、結局、特定するに至っていない。

しかし、その一方で、証人K2、同K1は、八月一日当日の状況について、非常に詳細な事柄についても証言している。すなわち、証人K2は、毛呂山町に向かう途中での道路工事などの交通事情や、上尾運動公園に向かう途中にロス五輪で長崎宏子がメダルを逸したことを残念がったこと、「ヤンブー」での食事の内容などについて、証人K1は、学習会場のテレビで森末慎二の三回転宙返り降りの演技を見たことなどについて、両証人とも、学習会場で、被告人の髪型が話題になったこと、AとBが海水浴に被告人を誘ったことなどの会話内容についてまでも具体的に詳細な証言をしている。それなのに何故八月一日の宿泊場所を記憶していないか、極めて不自然である。

また、両証人は、学習会では幹事をすることもあり、その運営にも関心があるはずであるが、当日の会場として使い、かつ宿泊もしたという場所について全く特定できないという結果になっていることは、極めて不自然であるといわざるを得ない。

なお、弁護人は、被告人方から押収された暗号による行動表・行動予定表には、水曜日ごとに「FB」と記載されており、これは「前進」の受領を意味するから、八月一日(水曜日)には被告人はアリバイ主張のとおり「前進」の受渡しに関与していた旨主張するが、後に革命軍立証の項で触れるように、Q1及びQ2は、月曜日又は火曜日に継続的に記載された「カモメ」「」が月曜日に発行の「前進」を意味し、金曜日にも記載のある「FB」は「前進」を表すものではない旨証言しており、両証人とも右のように暗号を解読した根拠を指摘していることに照らすと、弁護人主張のように「FB」が「前進」の受領を表すといえるか疑問なしとしない。

第四家族旅行関係

次に、被告人の供述中の家族旅行の部分に関連する証拠を検討する。

一  関係者の供述

1  まず、甲2は、要旨次のとおり供述している(第七二回)。

「昭和五九年八月一二日から一五日まで、夫である被告人及び長男拓也とともに、新潟県長岡市方面に旅行し、国民宿舎八方台休暇センターに宿泊した。私は、同月一三日から一五日は有給休暇をとった。看護婦として勤める勤務先の病院の外来診療日誌写(弁三八)に「甲2有休」と記載があるのは、病院の外来の主任が記入したものである。

八月一二日には、被告人とK2と高崎線の新町駅で会った。K2とは初対面だった。K2運転の車の中で被告人の髪が短かったので、「似合わない」と言ったら、被告人は「伸びたうちだ」と言っていた。普段は、そんなに短くなく、普通のサラリーマンの感じの髪型をしていた。

八方台休暇センターでは、中尾という名前で宿泊した。

八月一三日は、県民いこいの森に行った。

八月一四日は朝娯楽室で被告人と拓也が将棋をやり、写真を撮った。昼は鋸山に登り、写真を撮った。

八月一五日は、タクシーで長岡へ、長岡から柏崎へ電車、柏崎からバスで鯨波海水浴場へ行った。海水浴中に、水難事故があった。被告人が岩場で事故を見つけ、泳いで助けに行き、反対側の岩場に引き上げた。ゴムボートがあったので、私が乗って渡り、毛布で暖めながら人工呼吸をした。その後救急隊の人が間もなく来たので、任せた。人工呼吸は口から息を入れた。ほかに、胸を押える方法もとった。人工呼吸をしていたら、中年女性が、隣で、「預かっているよその子ですから助けてください」と言った。途中で水を吐いた。救急隊の人から、「発見者はどなたですか」と聞かれた。私か被告人が、「私たちです」と答えた。名前を聞かれて、「結構です」と言って帰った。救急隊が来た後、その場に一〇分くらいいた。自衛官という人が第一発見者として名乗り出たようなこともあったかも知れない。

証人尋問調書添付の写真は、①から⑦と⑨は、私が撮影し、⑧は拓也が写したもので、①から③は一三日、④から⑧は一四日、⑨は一五日のもので、九枚とも私が保管していた。カメラは私のポケットカメラで、一二枚撮りのフィルムを使用した。写真のネガは必要がないから、プリントした後帰りに捨てた」

証人甲2の右供述は、被告人の前記供述とほぼ一致している。

2  次に、検察官申請の証人酒井隆一の証言要旨は、次のとおりである(第一〇七回)。

「昭和五九年八月一五日、鯨波海水浴場で中学生高橋正宏を救助したことがある。正午ころ、一緒に海水浴に行っていた萩原が子供が浮いてこないと自分に言いに来た。一緒にその場所に行き、溺れていることを二度潜って確かめた。近くの男性二、三名のボートに助けを求め、合計三名で岩場に助け上げた。これらの人の中にシュノーケルや水中眼鏡を付けた人は記憶にない。一〇分から一五分くらいで救急隊が来た。その間、周囲には、自分達を含めて六、七名いた。引き上げた一人が気道確保をし、もう一人が胸を押えていた。二人とも男だった。マウストゥマウスの人工呼吸をした人はいなかったと思う。女性が人工呼吸をしたことはない。岩場の付け根の方から、中年の女性が人工呼吸のやり方について指示したこともない。警察官に第一発見者を聞かれて、自分達ですと答えた。岩場には中学生の親戚らしい人はいなかった。六、七名の中に女性がいたという記憶はない。(被告人と甲2の写真を見て)、見た記憶はない」

3  これに対し、酒井証人と鯨波海水浴場に一緒に水泳に行っていた自衛隊の同僚で弁護人申請の証人萩原大造の証言要旨は、次のとおりである(第一一七回)。

「当日(八月一五日)、当時所属していた自衛隊の同僚の酒井隆一と鯨波海水浴場に行っていて、少年が溺れているのを発見した。水中眼鏡を掛けた三〇代か四〇代の男の人が少年が溺れているのを確認し、同人ら四、五人で岩場に上げ、人工呼吸をしようとしてうまくいかず、三〇代か四〇代の人がマウストゥマウスの人工呼吸を行った。少年は水を吐き、横向きにした。少年の体の下にはバスタオルが敷かれていた。そのそばに小さな子供を連れた親戚と思われる女の人が来て少年の名前を呼んだ。警察官が第一発見者を探していたが、水中眼鏡を掛けた人はいなかった。その男の人の特徴は覚えておらず、被告人であるかどうかは分からない。人工呼吸をした女性の特徴も覚えていないが、中肉中背で、パーマであった気がする。この女性は、砂浜の浜茶屋の方向から歩いて来たと思う。浜茶屋の方角から来たことと、人工呼吸をすることに慣れていたので、海の監視所の人ではないかと思った。平成元年六月一七日付検察官調書では、「人工呼吸をした男性は、そんなに太っていたわけではないが、どうも体型が何となく中年太りしたような感じだった」旨供述した。また、同調書では、水中眼鏡の男性と被告人の写真が同一かを聞かれて、分からないと言ったと思うが、「人工呼吸をした男性はもっと太っていたような印象が残っているので、別人のような気がする」旨調書にあれば、そう言ったと思う」

4  また、弁護人申請の証人小林石三は、要旨次のように供述している(第一一七回)。

「当日鯨波海水浴場に行っていた。溺死した少年は弟夫婦が連れてきていた。水難に気がついたときには少年は岩場に引き上げられていた。一人の男が少年の胸を押し、一人の女が顔のところで口移しの人工呼吸をしていた。弟の妻が二歳くらいの子どもを連れて少年のところまで確認に行った。人工呼吸していた男女の年齢、体格等の特徴は分からない」

二  検討

1  客観的証拠

いわゆる家族旅行に関連する客観的証拠としては、次のようなものがある。

(一)  外来診療日誌の写(弁三八)の昭和五九年八月一三日分から同月一五日分までには、看護婦勤務状態の欄に「甲2有休」との記載がある。

(二)  長岡市八方台休暇センター予約受付簿の写(〈証拠〉)には、中尾正三名義で同センターに宿泊予約があり、昭和五九年八月六日に予約金を受領し、中尾正三のグループ(大人二人、子供一人)が同月一二日、一三日、一四日と三泊した旨の記載がある。

(三)  新潟県柏崎地域広域事務組合消防長村田精一作成の回答書添付の救急出場報告書の写(甲二二九)によれば、昭和五九年八月一五日、鯨波海水浴場で埼玉県浦和市の中学生高橋正宏が溺死した事故で、救急車が出動し、現場に一二時五二分に到着したことが認められる。

(四)  柏崎市の水難事故報告書(〈証拠〉)によれば、高橋正宏は、十日町の親戚に一人で来ていたこと、当日は親戚家族四人とバスで鯨波海水浴場に行き、午後零時三〇分ころ、遊泳者が溺れている高橋を発見し、救急車の要請をし、午後零時四五分ころ、監視所に通報し、監視員と救護婦、警察官が駆けつけ、発見者に代わって人工呼吸、心臓マッサージを行い、午後一時ころ救急車に引き渡したことが認められる。

(五)  いわゆる家族旅行写真(〈証拠〉)。

右の一連の写真を見ると、被写体は、①は被告人の長男拓也、②は被告人、③ないし⑦、⑨は被告人と拓也、⑧は被告人と甲2が写っている。

②、④、⑤の背景となっている部屋の状況は、弁護人一瀬敬一郎作成の写真撮影報告書(〈証拠〉)に添付されている写真により認められる八方台休暇センターの「南蛮」及び娯楽室の各室内の状況と対比すると、酷似していると認められ、同休暇センターで撮影されたものと認めることができる。また、写真⑥、⑦、⑧については、写真に写っている鋸山山頂の碑、被告人らの服装などからみると、一連の機会に撮影された写真であることが窺える。

写真の表面自体には日付等は入っていないが、写真の裏面に日付の記入がある。これは、甲2の証言によれば、同人による書込みと認められるが、①ないし⑥の写真では、記入の仕方が異なっている。すなわち、①1984年8/13、②84年8/13、③1984年8月13日夕、④1984年8月14日朝、⑤1984年8月14日朝、⑥1984年8/14、⑦1984年8/14、⑧1984年8/14、⑨1984年8/15となっている。

これらがいつ記入されたか明らかでないこと、ネガが廃棄されていることなどからすると、同一機会に書かれたことについてはやや疑いを差し挟む余地もあり、ひいては、同一機会に撮影されたものであるかどうかについても、疑問の余地がないわけではない。

しかし、右の(一)ないし(五)の客観的証拠に照らすと、被告人の供述するように、被告人が家族とともに昭和五九年八月一二日から同月一四日まで長岡市八方台休暇センターに宿泊したこと及び同月一五日に鯨波海水浴場で水難事故が発生したことについては、間違いがない。

2  次に、被告人が主張するような状況で同月一五日鯨波海水浴場の水難事故に関与したかどうかについて検討する。

(一)  酒井隆一の証言には、萩原大造及び小林石三の各証言で認められる、救助していたのは男女二人であり、マウストゥマウスの人工呼吸をしたことと明らかに反するところがあり、ただちには信用できない。

(二)  萩原大造及び小林石三は、救助活動をした男女について、被告人夫婦と特定する供述はしていないが、被告人及び甲2の各供述中に現れている当日の被告人らの状況に合致するかのような供述をしている。しかし、子細に検討すると、萩原大造の供述については、第一発見者については、自己や酒井隆一であって、被告人ではない旨、人工呼吸をしている男性に対岸の女性が人工呼吸の仕方を指示していたことや、女性が対岸からゴムボートに乗って人工呼吸をしに来た経緯はなく、人工呼吸をした女性は浜辺の方から岩場伝いに歩いて来たと思う旨など、被告人や甲2の供述、証言と相反する部分がある上、人工呼吸をした男女の特定はできない旨証言し、検察官調書では人工呼吸をした男性が被告人と異なる気がする旨を供述していたことからすると、萩原の証言も、被告人ら家族が昭和五九年八月一五日に鯨波海岸にいたとする被告人の主張を必ずしも裏付けるとはいえない。

(三)  時刻表(〈証拠〉)によれば、八月一五日の鯨波駅発長岡方面行きの電車は、一二時二二分発の次は一五時〇三分であり、被告人が乗ったと供述する一三時前後に該当する電車はないことが認められる。

被告人はこの点について、証拠調の最終段階(第一二一回)で「鯨波の駅で列車に乗ったのは午後一時近いと述べたのは実際にはもう少し遅い時間であったろうと思う。午後一時ころは、救助活動をした岩場の近くの元いた岩場で泳いでいた、遊んでいたと思う」旨供述しているが、詳細に述べていたアリバイ供述の一部を証拠調の最終段階に至って訂正すること自体不自然である上、前記のとおり、救急車が現場に一二時五二分に到着したこと、少年が午後一時ころ救急車に引き渡されたことと合致せず、また、救助活動後にも元いた岩場で遊んでいたというのは、救急隊ないし警察が第一発見者を探していたこととの関係で不自然である。右の変更後の供述は、甲2の「救急隊の人から、「発見者はどなたですか」と聞かれた。私か被告人が、「私たちです」と答えた。名前を聞かれて、「結構です」と言って帰った。大宮で三時か四時に別れた」旨の供述とも相違することとなっている。

以上の点を考慮すると、被告人がその主張にかかる状況の下に、右水難事故に関与したとはにわかに認め難いといわなければならない。

第五被告人の当時の頭髪の状態について

一  争点

弁護人及び被告人は、八月一日のアリバイ関係の立証において、被告人が七月二九日に床屋に行き、スポーツ刈りにしたことを主張している。

これが真実であるならば、Tの目撃供述の内容、すなわち、八月一日に電磁弁一〇個を購入した人物が「髪はちりちりではなく、ウェーブのかかった天然パーマかなという感じで、びしっと分けた感じではなく、七三くらいに分け、短くはなく、長髪でもなかった」旨の証言内容と矛盾することになる。そこで、以下、関係証拠を検討する。

二  関係者の供述

この点に関連する証拠としては、被告人が昭和五九年七月二九日にスポーツ刈りにしたこと、予想外に短いものであったことを供述し、その後被告人と会った友人らが、被告人の頭髪の状態を見て、それをいろいろな機会に話題にしたことを、それぞれ供述している。

すなわち、

(1)  被告人の公判供述(第七六回、第八二回)中の、

「七月二九日、流山総合運動公園からの帰途、川崎駅近くの低料金の理髪店である「コトブキ」という床屋に行き、散髪したが、少し長めのスポーツ刈りと頼んで、それまで長かった髪が予想していたより短いスポーツ刈りになった。散髪した人は男の人だった。七、八台ある理髪台のうち入口から二、三台目だった。

八月一日の学習会で使用した「前進」に全学連大会の記事があったが、スポーツ刈りにしたことが冷やかし半分で話題にされ、ふけて見えるとか、全学連大会の記事と対比して歳をとったものだとか話題になった。

八月一二日に、家族旅行に行くため、高崎線の新町駅付近の喫茶店で妻子と合流したが、K2の運転する車中で妻から「髪を随分短くした、余り似合わない」と言われた」旨の供述部分

(2)  証人K1の「八月一日の学習会の際、被告人の髪の毛が、どうしたのかと思うくらいの短い髪で、やくざっぽく見えた。額がやけに広くて、私とCがおっさんぽく見えると言ったら、ほかの人が、さっぱりしていていいと言って話題になった。スポーツ刈りで角刈りに近いすべての毛が立つくらいの短さだった」旨の供述部分(第六二回ないし第六四回)

(3)  証人K2の「八月一日に「前進」の受取りのために被告人と会ったが、髪が非常に短かった。角刈り、スポーツ刈りに近い短い髪型だった。当日にK1のほか、友人三名と会ったが、被告人の散髪のことが話題になった。学習会では、「前進」の全学連大会の記事の関連で、被告人の髪型を見て我々も歳をとったと話題になった」旨の供述部分(第六五回ないし第六八回)

(4)  証人K3の「昭和五九年八月一日、「前進」を渡すため被告人と会った際、被告人は、床屋へ行ったばかりだと思った。以前と変わってスポーツ刈りだった」旨の供述部分(第六九回)

(5)  証人甲2の「八月一二日に家族旅行へ行くため被告人と合流したが、その際、被告人の髪が短かったので、似合わないと言ったら、被告人は伸びたうちだと言っていた」旨の供述部分(第七二回)

以上の関係者の供述があり、相互にその趣旨がほぼ一致している。しかし、被告人の妻である甲2を含め、中核派構成員又は同派と深い関係を有するK1、K2及びK3のアリバイに関する供述の信用性に疑問を容れる余地のあることは、既に述べたとおりである。そこで、以下において、関係者の供述以外の客観的裏付けの有無を検討する。

三  検討

1  安永初男の証言

まず、証人安永初男は、昭和五八年四月から昭和六二年一一月まで川崎市内の理髪店「コトブキ」に勤務していた者であるが、要旨次のとおり供述している(第一〇八回)。

「「コトブキ」は、昭和五九年七月二九日は、営業しており、自分も勤務していた。当時、客は、一日に一五〇人以上いた。一人二〇分くらいで処理するという数でこなす店なので、客を一人一人覚えていない。

被告人を見た記憶はなく、散髪した記憶もない。その日以外でも、被告人の記憶はない。九台の理髪台のうち、私は、入口から三台目の椅子を使用していた。家族旅行の写真を見ても、散髪した記憶はない」

安永初男の証言は、「コトブキ」の店の営業が低料金で多数の客を扱う形態であり、一日の客数も多く、扱う時間も短時間であることから、一見の客を覚えてなくても不自然ではないことを考慮すると、昭和五九年七月二九日に被告人が「コトブキ」で散髪したかどうかの点については、右証言によってはどちらともいい難い。

2  証拠物

そこで、被告人がいつ、どのような髪型に散髪したか、八月一日の髪型はどうであったかの事実と間接的に関連する証拠として、前述のいわゆる家族旅行写真(符三七、三八)が問題となる。この写真のうち、②ないし⑤に写っている被告人の頭髪の状況から、その髪型、散髪後の髪の伸び方について判断することは、写真をつぶさに観察しても素人目では困難であるといわざるを得ない。

なお、東京拘置所長作成の照会回答書(〈証拠〉)によれば、被告人は、平成二年七月二〇日に東京拘置所において散髪をしたことが認められるが、裁判所は、同年八月一〇日の公判期日において、被告人の散髪後二〇日経過後の頭髪の伸び具合を検証し、写真撮影をした(第一一〇回公判期日における検証)。

3  鑑定的意見

(一)  春山良和及び松戸日出男は、警視庁公安部公安第一課から鑑定嘱託を受けて、頭髪の伸び方に関する鑑定をした者である。

鑑定資料として、警察官九名をモデルとした、やや厚め(幾分長め)のスポーツ刈りの髪型による散髪後の経過日数に従い写真撮影した捜査報告書、被告人の写真(符三七、三八の②ないし⑤の写真、「甲1写真」とも呼ぶ。)を接写撮影した捜査報告書を提供され、鑑定事項は、そのうちの一六日ないし一七日経過した写真(対照写真)と右被告人の写真とを対比して、被告人の写真と警察官の対照写真とで、散髪経過日数が同じかどうかということと、散髪時の髪型、長さが同じかどうかということであった。

その鑑定結果は、いずれも、双方の写真の散髪後の経過日数は同じとは認められない、散髪時の髪型、長さは同じとは認められないというもので、その理由としては、春山良和は、「甲1写真の散髪後の経過日数は、一週間以内と判断した。甲1写真は、セミロングの髪型である」というものであり、松戸日出男は、「甲1写真は散髪後一週間から一〇日、個人差を考慮して最大限二週間以上は経っていない。甲1写真は、普通調髪の髪型である」というものである。

春山良和は、かつらの製造販売を業とする株式会社アデランスの本部営業推進部次長で、二〇年間の理容師としての経験を有する者であるが、その証言及び同人作成の鑑定書の中で、右の根拠として、散髪後二、三週間くらい経過するともみ上げ部分及びネックラインが不揃いになり、後頭部のぼかしがなくなるが、甲1写真は警察官の散髪後六日目の写真ともみ上げ部分、ネックライン部分、後頭部のぼかしの部分が同じであったこと、甲1写真の髪の長さは、天頂部が約三センチメートル、耳の回りが約二センチメートルであることを指摘している(第一一一回、第一一三回)。

松戸日出男は、かつらの製造販売を業とする株式会社アートネイチャーに勤務する二六年間の経験を持つ理容師であるが、その証言及び同人作成の鑑定書の中で、その理由として、甲1写真は、耳から首に向かうネックの部分の線が揃っており、襟足部分も頭髪がほとんど伸びておらず青く見える状態が保たれていること、甲1写真のうち③、④は厚めのスポーツ刈りのようにも思われるが、②は髪の毛を分けているような状態と全体的な状態から判断してスポーツ刈りの散髪とは認められないことを指摘している(第一一〇回、第一一一回)。

(二)  安永初男は、理髪店「コトブキ」に勤務する約二五年間の経験を有する理容師であるが、前述の理髪店「コトブキ」に来店したかどうかについてのほか、甲1写真を示されて、理髪後の経過日数等を証言している(第一〇八回)。

すなわち、結論としては、「甲1写真は、スポーツ刈りではなく、ロング刈りであり、理髪後大体一週間くらい経っている」として、その根拠としては、スポーツ刈りは全体を立てるカットなので、丸い曲線とウェーブは出ないが、写真ではウェーブが出て、側頭部の毛が多く、分けたように見えること、ネックラインともみ上げの線がはっきりしていること、後頭部下部にぼかしが出ていることを指摘し、被告人の頭髪を見て、くせ毛の場合は、思いきり短くしないとスポーツ刈りにならないから、長めのスポーツ刈りはできないと供述している。

(三)  一ノ瀬登は、理容技能のコンクールでの優勝経験や、全国大会でも入賞した経験があり、東京都理容環境衛生同業組合の本部講師を勤める四一、二年間の経験のある理容師であるが、結論として、「甲1写真の②ないし⑤は、スポーツ刈りで、散髪後最低二週間以上経っている」とし、「④、⑤は、二週間くらいで、三週間は経っていないが、②、③は、フロント部と天頂部の髪が長いことからみると、三週間から四週間くらい経っている」としている。その理由として、毛先で形を構成していること、ぼかしについては、甲1写真の④は、ぼかしが見えにくく、⑤は若干見えるが、その状態はカットしてすぐではないこと、もみ上げについては、②ないし⑤は、自分で短く切ったと思われ、②が整っていないのは、自分でそるときに斜めになったと思われること、④のネックラインがS状に下の方にふくらんで散髪時から少し経過していることなどを挙げている(第一二〇回)。

(四)  堀純は、理容師として約三二年間の経験を有し、全国理容環境衛生同業組合のヘアデザイン、理容クリニックの中央講師を勤める者であるが、その証言の中で、結論として、「甲1写真は、髪型は少し長めのスポーツ刈りといえ、散髪後最低二週間以上で三週間以内経過していると思う」とし、その理由として、ネックラインは乱れていること、もみ上げは、下の部分が揃っていないことを挙げ、「くせ毛の頭にぼかしを入れるのは技術的に難しく、時間もかかり、低料金の店では、くせ毛の頭にぼかしは入れない。甲1写真には人工的に作ったぼかしは見られない」旨供述している(第一二〇回)。

(五)  右各証人は、それぞれの理容師としての知識、経験に基づいて、頭髪の状態について詳細に観察し、経過日数についての意見を述べているのであり、それには、鑑定的な意見としての証拠能力を一応付与することができると思われる。

ところで、春山良和は、前記の裁判所による平成二年八月一〇日の公判期日(第一一〇回)における検証に際して撮影した同期日公判調書添付の写真のうち、ポケットカメラで撮った写真である番号A3の写真と一眼レフカメラ(ミノルタ製)で撮った番号B10の写真とを対比して、「B10の方が間違いなく経過日数が長い」と証言し、松戸日出男は、同A3の写真は、「きちっと襟足を短く刈ってからの日にちでしたら、二、三週間だと思う」、同B8の写真は、A3の写真よりも「一週間から一〇日くらい長く経過したように見える」旨証言しており、堀純は、同調書添付のA、Bのほか一眼レフカメラ(キャノン製)で撮ったCの写真を示されて、「全体的に言えることは、A、B、Cは、ちょっと見たら長さが違うように見える。Aの写真の方が短く見え、Bの方が長く見える」旨証言し、一ノ瀬登は同調書添付の写真を全部見せられて、同写真の頭髪も長めのスポーツ刈りであると証言しているが、これらは、いずれも客観的事実と合致しない。

右のように、同じ日に撮影した被告人の頭髪であっても、カメラの機種、写真の写り方が異なることにより、経過日数の判断に相当の差異が出ることを考えると、写真の頭髪を通じての経過日数の判断には限界があるといわざるを得ない。

さらに、それぞれの鑑定の経過をみると、各証人とも、毛髪が一か月間に約一センチメートルないし約1.3センチメートル伸びるということを前提に、それぞれの知識、経験に基づいて、甲1写真に写った被告人の頭髪について、長髪の部分から次第に短く髪の長さを揃えて髪のないところまで続ける裾の部分のいわゆる「ぼかし」の状態、耳の後ろの髪の毛の揃い具合であるネックラインの状態、もみ上げの部分の状態を観察することにより結論を出している。

しかし、ぼかしの部分は、裾の毛の生え方や理容師によって入れ方が違うこと、客の注文や髪質によって襟足に剃刀を入れる場合と入れない場合があること、同じスポーツ刈りでも、頭の形や客の好み、理容師の癖により髪の長さが頭頂部と側頭部とで同じ場合も違う場合もあること、ネックラインの不揃いは、伸び方の個人差、理容師の刈り方にもよること、もみ上げの不揃いも、頭髪の質、刈り方、髪の伸び方の個人差、自分でそったかどうかによって違いが出ること、したがって、写真からは散髪直後の髪型を確定できず、その後の手入れの状況も確定できないこと、また、被告人の頭髪がくせ毛で伸びた状態の見え方に直毛の場合と異なる考慮が必要であるところ、それをどのように考慮すべきであるか明らかとはいえないこと、このほか、甲2の証言によって認められるとおり甲1写真を撮影したカメラがポケットカメラであり、ピントがシャープとはいえないことなどを考慮すると、各証人には、これらの要素の重きの置き方の違い、毛髪の個人差、理容師間の個人差の幅の取り方、写真の読取り方などについての微妙な見解の差があり、それが結論を左右しているものと思われ、このような証拠の状況下では、この間のどれかをより信用できるとし、他を信用できないとして取捨選択することは妥当とは思われない。

加えて、前記のとおり、いわゆる家族旅行写真には、同じ機会に撮影されたのかどうかについての疑問もある。

したがって、結局、いわゆる家族旅行写真から、頭髪の状況を読み取り、それが被告人の主張のとおり昭和五九年七月二九日に少し長めのスポーツ刈りにしたものであると認定したり、八月一日の頭髪の状況を推認したりすることはできないものと考えるのが相当であると思われる。

第六結論

以上述べたとおり、被告人の八月一日のアリバイ主張については多くの疑念を差し挟む余地があり、弁護人の立証によっても右アリバイの存在が証明されたとは到底いえないのであって、本件における右アリバイの主張・立証は、前記Tの目撃証言の信用性を左右するに足りないものといわなければならない。

七 筆跡鑑定

第一検察官は、その申請にかかる森岡博史、原子朗各作成の鑑定書等に基づき、物品受領書記載の「小島」及び同「坂田」の各署名は同一人物の筆跡であり、この事実は、T証言及びN証言の信用性を客観的に裏付けるとともに、ひいてはT証言にいう「小島」なる人物とN証言にいう「坂田」なる人物がいずれも被告人であるとの結論の正当性を根拠づけるものであると主張し、一方、弁護人は、その申請にかかる市川和義、宇野義方、石川巌、山下富美代各作成の鑑定書により、右各署名は被告人の筆跡ではないと主張するので、以下、本件において取り調べられた各筆跡鑑定の結果について検討する。

一 人の筆跡には、それなりに固定化した特徴、すなわち筆跡個性がある。筆跡鑑定は、この筆跡の個人差に着目して、複数の文書の筆跡個性を比較対照することによって、筆者の同一性を識別しようとするものである。ただ筆跡は、指紋のように万人不同で常時不変でもないので、その鑑定は、指紋を照合してその同一性が即人物の同一性と判定し得るごとくに単純明快ではなく、筆跡の同一性は程度の問題となり、それに基づく筆者の同一性は確率の問題となる。まず、鑑定資料からその筆跡個性をいかに抽出するかという問題がある。また、この筆跡個性を比較する際に、これを構成する個々の特徴の異同をいかに判別するかという問題がある。さらに、この筆跡個性の間に全体としてどの程度の異同があれば、最終的に同筆あるいは異筆と結論するのかという、鑑定基準の問題がある。筆跡鑑定の信頼性はこれらの各プロセスにおける判断の科学性、客観性及び厳格性にかかっているといえよう。

筆跡鑑定に科学性、客観性及び厳格性を持たせてその信頼性を担保するためには、次の観点が重要であると思われる。まず、鑑定資料からの筆跡個性の特定において、個々の特徴の稀少性(固定化された筆跡個性が他人のものと大きくかけ離れていること)及び恒常性(常同性)(固定化した筆跡個性が一人の人の間で繰り返し現れること)を検討すべきことは個性を抽出せんとする限り当然の要請であるが、問題は、稀少性及び恒常性の認定の基準をどこに置くかということである。また、筆跡個性を比較する場合、それが全体的な比較であるから、相同性のみならず相異性をも検討すべきことは当然であるが、問題は、個々の特徴の異同を判定する際に、それが指紋の場合のように完全に重なり合うことはまずあり得ないから、そのずれの程度の客観的把握と、どの程度のずれまでを同じ特徴として判別するかの基準をどこに置くかということである。すなわち、同一人が書いた同一文字であっても、すべての特徴が同じということはないし、また、別人が書いた筆跡であっても、全く異なるということもないのであるから、筆跡鑑定をする際には、個人内変動の幅を見きわめておかなければならない。さらに、いわゆる鑑定基準の設定については、同筆及び異筆のできるだけ多くの例について、右の観点から筆跡個性の比較・検討を重ねることにより、より正確に一般化することが要請されるであろう。

前叙のとおり、筆跡は、指紋等と異なり、日本国内に同一の筆跡個性を有する者が二人といないということが証明されているわけではないから、鑑定資料の筆跡に現れた個性と対照資料に現れた個性とが同一と判断された場合にそれだけで直ちに両文書の筆者が同一人と断定することはできない。また、筆跡の個性を把握することは指紋や血液型等の特徴を把握することに比較すればはるかに困難であり、鑑定人の主観的な判断が入り込みやすく、それだけに、筆跡鑑定の証拠価値については十分に慎重な態度が要求されるものといえる。

二 本件においては、シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所発行の電磁弁販売関係の物品受領書に記載された「小島」、同社秋葉原営業所発行の圧力調整器販売関係の物品受領書に記載された「坂田」の筆跡等と被告人の筆跡の同一性につき、検察官申請の森岡博史、原子朗、田中繁夫、弁護人申請の市川和義、宇野義方、石川巌、山下富美代の各筆跡鑑定書が取り調べられた。検察官申請の鑑定人と弁護人申請の鑑定人の間で、正反対ともいうべき鑑定の結果が出されているが、以下、これらの鑑定結果から、右物品受領書の「小島」、「坂田」の各筆跡の同一性及びこれらと被告人の筆跡の同一性が認定できるのかについて検討を加えることにする。

第二森岡博史の証言(第八八回ないし第九〇回)及び同人作成の昭和六〇年五月六日付、同月一七日付各鑑定書(〈証拠〉)(以下、これらを併せて「森岡鑑定」という。)について

一  森岡博史は、東京大学文学部で心理学を専攻し、現在は、書道団体を主宰するとともに、筆相診断(人間の文字を書くという行動が、深層心理によってコントロールされていると理解した上、筆跡を心理学的手法で分析し、書いた人間の性格、適性を診断するという、森岡博史の造語にかかるものである。)を業としている者である。

二  昭和六〇年五月六日付鑑定書関係

1  鑑定資料

資料1は、物品受領書受領印欄の「坂田」の拡大コピー

2は、物品受領書受領印欄の「小島」の拡大コピー

3は、甲名義の賃貸借入居申込書写

4は、甲名義の液化石油ガス法第一四条に基づく書面の受領書写

5は、甲1名義の普通預金払戻請求書写(昭和五九年八月八日付)

6は、甲1名義の普通預金払戻請求書写(昭和五九年一一月一四日付)

7は、甲1名義の普通預金払戻請求書写(昭和六〇年一月七日付)

2  鑑定結果

資料1と資料2は、同一人が特殊な書法で書いたものと見られる。特殊な書法とは、利腕右腕の人間が左手によって書いたか、筆記用具がボールペンであるにもかかわらず、毛筆の懸腕法的書き方によって書いたかのいずれかと推測される。

資料3ないし7の筆跡は、同一人のものと推定される。

資料1、2の筆者と資料3ないし7の筆者は、別人であると推定させる積極的特徴点がないこと、及び同一人であると推定させる特徴はいくつかあることから、同一人が書いたと断定するにはデータ不足ではあるが、同一人の筆跡である可能性が高い。

三  昭和六〇年五月一七日付鑑定書関係

1  鑑定資料

資料1は、「要望九一号」写

2は、甲名義の賃貸借入居申込書写

3は、物品受領書受領印欄の「小島」の拡大コピー

4は、物品受領書受領印欄の「坂田」の拡大コピー

2  鑑定結果

資料1と資料2の筆跡は、同一人のものである。

資料1の筆跡と、資料3、4の筆跡は、データ不足により断定はできないが、類似性は強く、同一人の筆跡である可能性が高い。

資料1、2の筆跡が同一人のものであり、資料3、4も同一人のものであるとの前提があれば、資料1、2のグループと資料3、4のグループの筆跡の同一性はさらに高まり、かつ、資料1ないし4各筆記時の条件が添付鑑定根拠に推定したとおりであるならば、資料1ないし4の筆跡が同一人のものである可能性がさらに高まるものと鑑定する。

四  鑑定理由の要旨

物品受領書の「小島」、「坂田」の各筆跡間の同一性、及びこれらの筆跡と被告人の筆跡の同一性の点に絞って、森岡鑑定の理由の要旨を示すと、次のとおりである。

1  物品受領書の「小島」、「坂田」の各筆跡間の同一性

森岡鑑定は、物品受領書の「小島」、「坂田」の各筆跡は、右利きの者が左手で書くとか、毛筆大字を書くごとく懸腕法でボールペン書きしたものと推定した上で、両筆跡が同一人の筆跡と見なし得る根拠については、(1)両筆跡の線のブレは特殊書法によるものとしても、そのブレの大きさ等の親近度は高い、(2)「小島」の「小」の一画、二画、「島」の一画の各起筆部と「坂田」の「坂」の二画の起筆部の親近度は、左手書きによる場合だとしても高いが、右手懸腕法によって書かれた場合には、左手書きのようにそうなりやすいケースと違って特別の一致であるから、一層高い確率で同一人筆跡を示す根拠となる、(3)「島」の一、二画の接筆部、「田」の一、二画の接筆部が、それぞれきちんとくっついた形をなしているのも両者に親近性があることを示している、(4)「島」の三画、「田」の二画の転折部がきちんと角張って曲がっているのも両者に親近性があることを示している、(5)「小島」、「坂田」の文字の書始めの位置が左寄りで、ほぼ同程度のかたよりを示しており、このかたよりは、個人差が大体安定しているので、その親近度は高い、(6)その他、両者とも、字中空間につぶれがない、左手で書くとか、細字を懸腕法で書くと、一〇人中五人くらいはどこかがつぶれるもので、これが両者とも小さなブレはあっても、つぶれにまで至っていないのは、親近性があることを示している、以上の親近性を総合して判断すると、両資料の筆者は同一人と推定される、としている。

2  「小島」、「坂田」の筆跡と被告人の筆跡と思われる他の筆跡との同一性

資料1、2の「坂田」、「小島」の筆跡と資料3(甲名義の賃貸借入居申込書写)、資料4(甲名義の液化石油ガス法第一四条に基づく書面の受領書写)、資料5ないし7(甲1名義の普通預金払戻請求書写三通)の筆跡の同一性につき、(1)「小島」、「坂田」の筆跡は転折部が角張っているが、平素書き慣れない特殊な書法で書く時にはぎこちなくなるのは当然で、滑らかなカーブは出しにくく、どうしても角張ってくるので、「坂田」、「小島」の筆跡が角張り、他の資料の字が丸みを帯びていても、両者の異筆性を示す根拠とはならない、(2)接筆面できちんとくっついているか、離し気味に書くかは、早く書くかゆっくり書くかに関係なく、その人の深層心理の一端が現れるもので、前記両者は、きちんとくっつく傾向があり、親近性がある、(3)資料3の申込者住所欄の「甲」字の等間隔性は同資料全体にほぼ共通しているところ、「坂田」、「小島」の筆跡は不慣れな特殊な書法であるにもかかわらず、字中につぶれがないことは、両者にかなりの親近性があることを示している、(4)「坂田」、「小島」の字の左寄りと、資料3の申込者氏名欄の「甲」の書く位置の左寄りにも親近性が認められることから、「坂田」、「小島」の筆跡と資料3ないし7の筆跡は、同一人の筆跡である可能性は高いが、これだけでは断定できない、としている。(昭和六〇年五月六日付鑑定書関係)

さらに、資料1(「要望九一号」写)と資料2(甲名義の賃貸借入居申込書写)の筆跡は同一人の筆跡であるとした上、資料1と資料3(物品受領書受領印欄の「小島」の拡大コピー)及び資料4(物品受領書受領印欄の「坂田」の拡大コピー)の筆跡の同一性につき、(1)資料1の「要」「品」「課」と資料3の「島」、資料4の「田」に接筆部が閉じた共通傾向が見られる、(2)資料1の「理」「置」と資料3の「島」、資料4の「田」に関し、前者は転折部が丸く、後者は転折部が角張っているというところがあるが、書きなぐる時と、丁寧に書く時では差が出るし、資料1の「品」には転折部に角張ったところもあり、異筆根拠とは認められない、(3)資料1の「留」「品」と資料3の「島」、資料4の「田」に関し、共に文字の下部の幅がわりに広い特徴があり、両者の筆法に差があるのに、このような同一性が混じるのは強い親近性が認められる、(4)資料1の「受」と資料4の「坂」に関し、「又」の部分に強い類似性が認められる、(5)その他、資料1と資料3、4の類似点として、ともに「はね」が少ないこと、資料3の「島」の六画の横線の長さがやや短くなって、かつ、収筆部に小さなかぎ型が生じて次の画に移るところが、資料1の「留」「長」等の同じ下から二番目の横線に認められること、を指摘し、資料3、4の字数が少ないため、絶対的な同一性の根拠とするわけにはいかないが、小さな類似性がいくつも累積し、かつ、(4)に指摘した「又」の部分の特殊な一致が認められることから、資料1と資料3、4が同一人の筆跡である可能性は極めて高い、と結論づけている。

そして、資料3、4の筆者が別人であって、全く無関係に同じ大きさの枠内に同じような懸腕法的筆法で署名するということ自体が考えられず、そうした特殊な状況下にあっての筆跡の類似性は、無差別的な場でよりも、同一性の確率が一層高まるものと思われる旨説明している。(昭和六〇年五月一七日付鑑定書関係)

五  森岡鑑定の問題点

森岡鑑定の証明力を判断するには、次の点を考慮しなければならない。

1  森岡博史は筆跡鑑定の経験が乏しいことである。刑事事件の捜査の一環として正式の鑑定嘱託を受けたのは、本件が初めてである。本件の鑑定書を書く前に、警察、検察官又は裁判所から筆跡鑑定の嘱託を受けたことはない。そのためか、筆跡鑑定では、原本を使用するのが望ましいにもかかわらず、鑑定書を作成するときには、原本を使用せず写を用いている。

2  森岡博史は、筆跡鑑定の前提として、文字を書く行動は、深層心理、すなわち無意識の心理が働いてコントロールされている、それが筆跡に現れるということを強調しているが、このような筆跡鑑定が客観的な方法論として確立されたものであるのか疑問なしとしない。意図的に自己の筆跡を変えようとしても、細かなところには深層心理が現れるというが、どの点に深層心理が現れているのか、その判断に主観が入り込みやすく、客観性を保持し難い嫌いがある。

仮に、心理分析により同一の心理状態での筆跡であるとの判断が可能であるとしても、そこから同一人の筆跡であると推定することは論理の飛躍があるといわなければならない。

特に、本件のように、物品受領書の「小島」、「坂田」はわずか四文字で、同一の文字がなく、しかも、意図的に自己の筆跡を変えようとして懸腕法的な書き方をした作為筆跡とすれば、深層心理によるコントロールは本来現れにくいと見るべきであろうから、心理分析により筆跡の同一性を鑑定すること自体困難といわなければならない。

3  森岡博史は、接筆開、接筆閉、転折丸、転折角が筆相の四要素であることを前提にして、物品受領書の「小島」、「坂田」の筆跡は同一人の筆跡である旨鑑定しているが、両筆跡が自己の筆癖を隠蔽しようとする作為筆跡であることに照らすと、この程度の類似点の指摘でもって、同一人の筆跡といえるか疑問がある。

ちなみに、後に触れるとおり、弁護人申請の市川鑑定は、「「小島」、「坂田」の筆跡には、類似する筆法も見られるが、配字及び文字の構成にやや相違する点が認められ、別人による筆跡である可能性も十分考えられる」とし、宇野鑑定は、資料の乏しさは決定的であると留保をつけながらも、「両者は、同一人の筆跡であるか、別人の筆跡であるかは断定できないが、後者と考えるのが自然であろう」としている。

4  「小島」、「坂田」の筆跡と甲名義の賃貸借入居申込書等及び甲1名義の普通預金払戻請求書等の筆跡を比較対照し、同一人が書いたと断定するにはデータ不足ではあるが、同一人の筆跡である可能性が高いと鑑定している。この結論自体同一人の筆跡であると断定していないのみならず、その理由とするところにも疑問の余地なしとしない。まず、接筆部が「開」か「閉」かに人間の深層心理の一端が現れるとして、本件では接筆閉の特徴があると指摘しているが、この前提が正しいか論証を欠くといわなければならない。次に、資料間の等間隔性、つぶれが無いことを指摘しているが、等間隔度につき、標準形の認定が厳密にはできないし、賃貸借入居申込書には等間隔度が厳密な意味で備わっていないものがある。両資料において、書く位置が左寄りである点に親近性があるとしているが、「小島」、「坂田」の数少ない文字について左寄りに書く点を筆跡個性として指摘できるのかも問題があるのみならず、これが筆跡の同一性の判断にどの程度の重要性を持つのかも疑問がある。

5  「坂田」の「田」につき三画目は縦線でその次が四画の横線が標準の筆順であると証言するところ、実体顕微鏡を用いて撮影した写真では縦線が後に書かれているように見える。賃貸借入居申込書には筆順としては、縦線が先、次いで横線の傾向の字もある。この点につき森岡博史は、「坂田」は特殊な筆法で書かれているので、平素の筆順と異なる筆順になることがあるので、異筆性の根拠にはならないとしているが、この筆順の相違につき十分検討した形跡が窺われない。

6  「小島」、「坂田」と「要望九一号」の筆跡の同一性につき、データ不足により断定はできないが、類似性は強く、同一人の筆跡である可能性が高いと鑑定している。この結論自体同一人の筆跡であると断定していないのみならず、その理由とするところにも疑問の余地なしとしない。まず、「島」、「田」と「要」につき、接筆閉の共通点を指摘しているが、森岡博史自身、鑑定書の中で、接筆閉と接筆開の比率はほぼ半々であるというのであるから、これが稀少性を示すものでないことはいうまでもない。「島」、「田」と「理」、「置」につき、転折角、転折丸の違いは書き方の相違によるとして、異筆根拠とは認められないとしているが、その論証が十分でない。「島」、「田」と「留」、「品」には、ともに文字の下部の幅がわりに広い特徴があり、「坂」と「受」の「又」につき確率的に極めて稀な一致があるとしているが、統計的な資料があるわけでもなく、その稀少性の論証が不十分である。その他指摘の類似点についても、筆跡個性を示すものといえるか疑問がある。

第三原子朗の証言(第九一回、第九五回、第九六回、第一〇四回)及び同人作成の鑑定書(〈証拠〉)(以下、両者を併せて「原鑑定」という。)について

一  原子朗は、早稲田大学政治経済学部教授で、日本語表現論、文体論を専攻している者である。文体論の一環として筆跡についても研究しているという。

二  鑑定資料

資料1は、被告人作成名義の接見等禁止解除申立書

2は、甲1名義の履歴書(身上書付)

3は、甲1名義の誓約書(昭和四三年五月二四日付)

4は、甲1名義の誓約書(昭和四六年一月二八日付)

5は、物品受領書(受領印欄に「小島」の記載あり)

6は、物品受領書(受領印欄に「坂田」の記載あり)

7は、水溶紙メモ(「様」見出しのもの)

8は、水溶紙メモ(「甲」で始まるもの)

9は、水溶紙メモ(「上田君へ」で始まるもの)

10は、水溶紙メモ(「富士山」で始まるもの)

11は、水溶紙メモ(「上田友彦」で始まるもの)

12は、水溶紙メモ(「増田栄三」で始まるもの)

三  鑑定結果

資料5、6の「小島」、「坂田」の筆跡は、資料5、6を除く他の資料の筆跡と同一人のものである可能性はあるが、全く同一人のものという断定はできない。その可能性の比率は五〇パーセント強である。

さらに、原子朗は当公判廷において、筆跡鑑定の結果について、次のとおり付加して供述している。

資料1ないし4(第一グループ)は、同一人の筆跡であり、これらと資料7ないし12(第三グループ)の筆跡は、同一人の筆跡である。

資料1ないし4と資料5、6(第二グループ)の筆跡は同一人の筆跡とは断定できないが、可能性はかなり高いと判断する。

四  鑑定理由の要旨

1  資料5、6の「小島」、「坂田」の筆跡が、全く同一人のものであることは、誰の目にも明白である。この二つの一致する特徴は、甚だ用心深く無個性の感じを、つまり日頃の筆跡の癖が出ないようにと筆速もゆっくり、四角張った書き方をしている。ペンも尖端で線が均一に細くなるように注意し、そのためにペンの握りも日頃の持ち方を変えて、握りの上の方(おそらく天辺近く)を持ち、紙面に対してペンは直角に近い角度で運筆されている。線に揺れが見られるのもそのためである。資料5、6の「小島」、「坂田」の筆跡から、共通の特徴として、(1)総体的に四角張った字体であること、(2)文字の結構(かまえ)の重心が低いこと(平べったいこと)、(3)縦画に対する横画が右上がりや右下がりでなく、概して水平であること、(4)したがって、鉤の部分が直角に近くなるが、その部分が必ずしも鋭角的でなく、丸みも帯びていること、(5)縦画を横画の中心より左に置く癖があること、を指摘することができる。

2  資料1は、全面的に右の(1)ないし(3)の特徴を備えている。(4)の鉤画の特徴についても、概ね角張っているものの、署名の「弘」や「右」「解」「申」等の右肩の鉤部分が示すように、全部が全部角張っていず、むしろ丸みを帯びている点は注意を要するが、これは筆速の影響があるとはいえ、被告人の筆跡の(あるいは性格も)頑固一点張りで画一的とはいえない可変性の一端を示すものであるかも知れない。そのことは、資料2の履歴書、身上書を参照するとき明らかとなる。資料2は、昭和四三年当時の筆跡で資料1よりも一八年も前のものであるが、この資料2の筆跡は一見別人のものかと思われるほど文字の重心が上にあり、角張っていず、鉤の部分すなわち肩のところが総じて丸い。どちらかといえば女性の筆跡を思わせる。一八年間の生活や思想の変化が筆跡をも角張った意志的なものにし(筆圧も著しく強くなっている。)、男性的な感触に変えたとも考えられるが、前述の鉤(肩)の部分には若いころの丸みを幾らか残しているとも見られるのである。資料5、6の筆跡の特徴の一つである縦画を横画の中心より左に置く癖も資料1に多く指摘できる。

3  資料2については、先に触れたが、ここで気になることは、資料5の「島」と特徴を異にする「島」が多く見られることである(特に、七画が左に飛び出しているところ)。しかし、資料10の上欄にある「桜島」が示すように、資料2のころの書き癖がその後改まって、七画を左に出さなくなったものと判断できる。また、資料2の履歴書の本籍欄の「島」だけが一画の打込み方が違っているが、これも、被告人がその時々に応じて同じ書き方をしない応変、可変の性格を持っていることの筆跡における現れの一例であるかも知れない。したがって、「島」の特徴が異なるからといって、資料5の筆跡が別人のものとする根拠にはならない。なお、「町」「田」「角」「因」等の文字は、前記(5)の特徴を備えているとみることができる。

4  資料3、4は、総体的な印象、字の特徴は資料2に近い。「島」もいずれも資料2と同じである。

5  資料7について、「石」、「思」の「田」の部分、「同」、「回」、「日」はいずれも早書きなりに、前記(1)ないし(4)の特徴を認めることができる((5)の特徴はこの資料では特定できない。)。なお、積極的な根拠とするにはやや弱いが、資料5、6に見られる線の揺れ(ゆがみ)といった波形が資料7の「独」、「山」、「会」、「思」に認められるし、資料5、6の「坂」、「小」の最終画のはらいと止めの画の特徴が資料7の「共」、「使」、「介」、「人」、「合」、「絡」等に見られ、いずれも直線的な棒状である。

6  資料8について、角張った書体の特徴がある。しかし、それと比例して肩の部分が丸い書き方をしたものも目立つ。ただ、前項に挙げた右はらい、止めの画が棒状の特徴を示しているのは注目に値する。

7  資料9について、重心の下がった角張った書体が基調になっている点、「上田君」の「田」が資料6の「田」に酷似する点、前項に挙げた右はらい、止めの画が棒状の特徴を示している点が、特徴として指摘できる。

8  資料10について、「山」「蘇」「原」等の棒状の止めが注目されるし、各欄の「山」又は「島」字の「山」は、資料5の「島」字の「山」に似ている可能性が高い。

9  資料11について、「上田」の「田」からして前記のような重心の下がった角張った特徴を示し、「本」、「神」、「独」「使」等に棒状のはらいや止めの特徴が認められる。ただ、気になるのは、最終行の「島」が一八年前の資料2の癖を甦らせて七画が左に突き出していることである。しかし、このことも、既に述べたように、この被告人は一つの形に固執せず、二様、三様の癖を時折同居させ得る応変の性格であることを考えるとき、昔書いた癖がふと出てきたとしても怪しむに足りないことであるかも知れない。

10  資料12については、「田」、「石」、「団」の外、重心の低い幅広い文字が目につく。「栄」、「美」、「団」、「地」、「山」、「沢」、「恭」等に棒状のはらいや止めの特徴が認められる。この資料の「地」、「坂」の土偏は資料6の「坂」の土偏に似ている可能性が高い。

11  各資料を基に、具体的に「五〇パーセント強」の可能性を追跡してきたが、個々の特徴抽出の段階からは、「その可能性は極めて高い」と言いたいところであるが、それをはばからざるを得ないのは、絶対的な根拠となる資料がわずか漢字四文字のみに限られていること、理由はその一事に尽きる。

12  そして、原子朗は、当公判廷において、資料の筆跡の同一性の確率について、資料1ないし4と資料9の同一人の筆跡である可能性は、ほとんど一〇〇パーセント、資料1ないし4と資料10の筆跡の同一の可能性は、八五ないし九〇パーセントである、また、資料5、6の「小島」と「坂田」が同一人の筆跡である可能性は一〇〇パーセントであると証言している。

五  原鑑定の問題点

原子朗は、警察からの依頼で約一〇件、弁護士等からの依頼で二〇件ないし三〇件の筆跡鑑定をしているというので、裁判所からの鑑定嘱託はないが、筆跡鑑定の経験が少ないわけではなく、資料1については、原本を見たか記憶にないが、他は原本を見ているというのであるから、鑑定資料の選択に不当な点はない。しかし、その証明力の判断に当たっては次の点を考慮しなければならない。

1  資料5、6の「小島」、「坂田」の筆跡は、全く同一人のものであることは誰の目にも明白であるとして、総体的に四角張った字体であること、文字の結構(かまえ)の重心が低いこと(平べったいこと)、縦画に対する横画が右上がりや右下がりでなく、概して水平であること、鉤の部分が直角に近くなるが、その部分が必ずしも鋭角的でなく、丸みも帯びていること、縦画を横画の中心より左に置く癖があること、を共通の特徴とし指摘している。しかし、これは両筆跡の類似点を指摘するにとどまり、稀少性または恒常性を備えた筆跡個性を抽出したものとはいえない。もともと、両筆跡には同じ文字がなく、文字数も合計四字と限られており、かつ、作為筆跡であるから、稀少性又は恒常性を備えた筆跡個性を抽出することは誠に困難なものと考えるのが合理的であり、原鑑定のように断定することは、早計というほかない。現に、後に触れるとおり、検察官申請の田中繁夫は、原子朗よりもはるかに筆跡鑑定の経験が豊富であるが、当公判廷において、資料5、6の「小島」、「坂田」の両筆跡を対照した場合、同一人の筆跡である可能性は六割ないし七割と証言しているのである。

2  筆跡特徴の相違点につき、それを筆跡の個人内変動とみるか異筆性の根拠とみるかの基準が、原鑑定では誠に不明確である。

原子朗は、普通の書き方では、「島」の七画は左に飛び出ない旨証言しているところ、被告人の筆跡と思われる資料2ないし4の「島」は、いずれも七画が左に飛び出ているのに対し、資料10の桜島の「島」の七画は左に出ていない。資料11では七画が左に飛び出ている。原鑑定は、島全体に共通している全体の形、構え、重心の低さ等を総合的に判断すると、これらはいずれも同一人の筆跡とみるべきであって、「島」の七画の前記のような違いは、個人内変動であり、異筆と判断する根拠としては薄弱で、「島」の七画だけで絶対、決定的に違う人間の筆跡とはいえない、としている。そして、資料11の「島」について、七画が左に飛び出ているのを、「この被告人は一つの形に固執せず、二様、三様の癖を時折同居させ得る応変の性格であることを考えるとき、昔書いた癖がふと出てきたとしても怪しむに足りないことであるかも知れない」としているが、これでは、主観に過ぎて客観性に欠け、到底人を納得せしめるものではない。本件で被告人が身柄を拘束された後、拘置所内から弁護人宛に出した手紙でも、「島」の七画が左に飛び出ているが、これはどのように説明するのであろうか。

3  弁護人指摘の筆跡の相違点につき、必ずしも合理的な説明をしていない。

資料7、9、11、12の「田」を比較し、重心が低い、幅が広い、左の縦棒が中心よりもやや左寄り、線質の共通を指摘しているが、例えば、縦棒が中心に位置するものもある。

資料2のうちの身上書、資料4の「島」は、六画が五画より出っ張っていないのに対し、資料10の「島」の六画は五画より出っ張っている。

資料7、8、12の「山」の二画が左に張っているのに対し、資料10の「山」は右に張っているか又は縦である。

資料10の三原山の「三」は、右上がりでなくてほぼ水平であり、三本の線が大体同じ長さであるのに対し、資料2、4の「三」は、三画が長く、右上がりのものがあって、その印象(形態)が異なるように思われる。

資料1の「権」の木偏は横画が上部の方に行っているが、資料10の「桜」の木偏の横画は上から三分の一くらいのところにあり、その位置が異なる。

資料2の「原」の三画の点の打込み、点の付け方が資料10の「原」と異なる印象を受ける。

弁護人は、仮名文字についても、次のとおり、多くの相違点を指摘している。

資料7と9の仮名文字につき、「な」の三画の高さに違いがあり、「で」の濁点の打つ位置が異なる。「め」の二画の起点が上に突き出ているとの違いも見られる。

資料1、7、9の「で」につき、資料1、7は濁点の打つ位置が一画より下であるのに対し、資料9はほぼ同じ高さである。

資料1、2、7、9の「な」につき、資料1、2、7は三画が一画よりも高いのに対し、資料9は低い打込み位置であり、資料1の「め」の二画の起筆部が上に飛び出していない、「あ」も同じく上に出ていない、資料7の「あ」及び「め」の「め」の部分が資料1と同様上に出ていないのに対し、資料9の「あ」及び「め」の「め」の部分の二画の起筆部が上に突き出している。

資料1と9の「わ」につき、資料1の二画が左がくるっと回った感じであるのに、資料9は直線である違いがあり、「え」につき、一画の打込みと収筆部分に違いがあるのではないかと思われる。

4  資料6の「坂田」の「田」の筆順につき、「土」の部分は、縦画を先に横画を後にという標準体で書いた旨証言しているが、弁護人提出の実体顕微鏡の拡大写真とは異なるように思われる。ちなみに、資料1、2の「田」は縦画が先、横画が後のように見える。原鑑定には、これらの筆順の検討が不十分である。

5  原鑑定では、資料5、6の「小島」、「坂田」の筆跡と資料1ないし4、資料7ないし12の筆跡につき、同一人のものである可能性は「五〇パーセント強」としていて、その鑑定自体からも、「小島」、「坂田」の筆跡が被告人の筆跡であると認定できない。その上、原鑑定では、鑑定書自体には記載はないが、被告人の筆跡と思われる資料1ないし4と資料7ないし12の筆跡が同一人のものであると判断しているところ、その結論に疑問がある。すなわち、江面寛(第一一五回)は、当公判廷において、資料9(「上田君へ」で始まるもの)は全部自分が書いた紹介状である、資料11(「上田友彦」で始まるもの)の大部分(同証人の尋問調書添付の書面中赤ペンで囲った部分)は自分が書いた旨供述し、また、高橋憲一(第一一五回)は、当公判廷において、資料12(「増田栄三」で始まるもの)の相当の部分(同証人の尋問調書添付の書面中赤ペンで囲った部分)は自分で書いた旨供述している。両証言については、検察官の反対尋問によっても、その信用性が否定されているわけではないことからすると、被告人の筆跡と思われる資料1ないし4と資料9、11、12(その各全部)が同一人の筆跡であるとする原鑑定は、この点において誤っている可能性があるといわなければならない。

第四田中繁夫の証言(第九三回、第九七回、第一〇一回)及び同人作成の鑑定書(〈証拠〉)(以下、両者を併せて「田中鑑定」という。)について

一  田中繁夫は、徳島大学教授を経て現在四国女子大学教授をしていて、書道を専攻している者である。

二  鑑定資料

鑑定資料は、原鑑定のそれと同一である。

三  鑑定結果

資料1ないし4の筆跡は、同一人の筆跡と推測する。

資料1ないし4の筆跡と資料5、6の筆跡は類似筆跡と推測する。

資料1ないし4の筆跡と資料7、8、9、11、12の筆跡は類似筆跡と推測する。

四  鑑定理由の要旨

1  資料1と資料2ないし4を比較するのに、一見すると両者には書的雰囲気の相違を感ずるも、再見吟味すると両者の間には相通ずる筆癖散見し、同一人としての特徴を有し、「しんにゅう」、「重」、「通」の書法又は筆癖は共通するので、資料1ないし4の筆跡は、同一人の筆跡と考えられる。

2  資料1ないし4と資料5、6の筆跡の異同についてみると、まず、資料5、6の特徴は、精神的な不安を内蔵する筆跡である、点画に小刻みな震えが認められる、自己の持つ筆跡を隠蔽せんとする意図ある筆跡とも考えられる、同一の筆圧で書写された筆跡である、文字構成の線状が直線的である、転折部の角度が直角に近い、点画に「はね」、「はらい」のない同一筆法である、ことにある。

資料1の「右」、「舌」、「知」、資料2の「因」、「角」、資料3の「因」、資料4の「保」、「更」と資料5の「島」、資料6の「田」につき、転折部分に「反れ気味」というやや類似した特徴を共有する。資料2、3、4の「島」と資料5の「島」につき、両者共通して「島」の六画が短小である。文字構成上、長大であるべき六画が短小であることは筆癖として重視すべきである。資料1の「反」、「友」、「被」、「支」と資料6の「坂」の「反」につき、「又」の部分の横画の長大さが類似し、二斜線の交叉の要領と雰囲気が共通する。これらの類似点から、資料1と資料5、6との筆跡は、同一人の筆跡であるとの断定は、躊躇するが、同一特徴を共通する類似筆跡である。

3  資料1ないし4と資料7につき、資料1の「右」、資料7の「石」の「口」、資料1と資料7の「て」、「で」に関し、形態も筆意も類似し、点の打ち方、その位置も類似する。資料1と資料7の「す」につき、結び方に特徴があり、両者のリズムが合一し、両者の「る」につき、収筆部分に相通ずる筆意を認めるので、これらは、相通ずる筆癖の散見する筆跡である。

4  資料1ないし4と資料8につき、資料2、8の「市」の一画の点の角度、三、四画の「冂」の様相が類似し、「県」の「目」の下部の「」、小さい二画の角度等が類似する。資料1、8の「3」に似た様相を呈する。これらは類似筆跡である。

5  資料1ないし4と資料9につき、資料1、9の「る」の結び部分の特徴が共通し、「ろ」の様相が類似し、「す」の結びのリズムの調子が共通する。資料1、2の「重」と資料9の「重」の一画の点の要領、方向、位置、最終画の結びが類似し、資料1の「造」、「退」、「迫」と資料9の「進」のしんにゅう偏の要領、調子等が類似するので、これらは類似筆跡である。

6  資料1ないし4と資料10につき、該当文字がないので、比較は省略する。

7  資料1ないし4と資料11につき、両者の「松」に決め手はないが、一寸似た感がある。しかし、判定が付かない。

8  資料1ないし4と資料12につき、資料1の「私」、資料2、3の「和」と資料12の「和」に関し、一画の筆癖が相通じ、のぎ偏、旁の「口」に類似点がある。資料2、12の「地」につき、一画と四画の高さが揃い、六画が下方に長く出る点、「営」につき、下部の「口」が偏平である点で類似し、「妹」の女偏が類似し、旁の「未」の筆意が類似する。これらは類似点の多い筆跡である。

そして、田中繁夫は、当公判廷において、次のとおり補足している。資料1ないし4が同一人の筆跡と推測するというのは、確率でいえば、七ないし九割、資料1ないし4と資料5、6が類似筆跡というのは、六、七割、資料5、6のみを比較した場合、同一人の筆跡である確率は、六、七割である。

五  田中鑑定の問題点

田中繁夫は、筆跡鑑定の経験は、警察、裁判所等からのものを合せて約一〇〇件であり、裁判所からのものは、民事関係のものが多いというのであるから、筆跡鑑定の経験は少ないわけではないし、鑑定の際は、資料1を除いて、原本を見た記憶があるというのであって、鑑定資料の点に不当な点はない。しかし、田中鑑定の証明力の判断に当たっては、次の点を考慮しなければならない。

1  筆跡鑑定の方法としては、本人の筆跡に相違ないというものから筆癖の特徴を把握し、この物差しを用いて対照筆跡に当てるというのが確実な方法であると証言しているが、本件においては、資料5、6につき、合計四文字で、同じ文字は無く、しかも作為筆跡であることを認めているのであるから、この筆跡鑑定の方法が十分実行できたか疑問である。

2  田中鑑定には、書的雰囲気、交叉・点の要領、しんにゅう偏の調子、筆意類似、結び方にリズムを感得する、様相類似等の言葉が随所に見られるが、これらの判断に鑑定人の主観が入り過ぎる危険はないであろうか、科学的(客観的)判断という点からすると、疑問がある。田中繁夫は、筆意とは、全体の筆の運びから受ける総体的な感じをいうと説明しているが、その説明自体主観的との印象を拭えない。

3  鑑定理由には、資料1ないし4と11につき、判定が付かないとしながら、鑑定結果では、類似筆跡と推測しているのは矛盾である。

4  筆跡が手書きによる場合には、ある程度の振幅があるので、どこか共通した雰囲気か特徴があれば同一人と判断することになると証言しているが、その相違が同一人の筆跡の個人内変動とみるのか、異筆性の根拠とするのか、その基準が曖昧となる危険がある。

5  資料1ないし4と資料5、6を比較して、文字構成上長大であるべき六画が短小であることは筆癖として重視すべきであると指摘し、この点に稀少性を認めているが、その論証が不十分である。現に田中繁夫は、この点に関する統計的な資料は持っていないと証言している。

6  資料6の「田」の筆順につき、三画の縦棒が先で、四画の横棒が後であると証言しているが、弁護人提出の実体顕微鏡写真によると、三画の縦棒が後で、四画の横棒が先であると見るのが自然であり、この点において田中鑑定の判断に誤りがある。

7  「島」の七画が左に飛び出しているというのは、資料2ないし4の筆癖であるとしながら、他の資料につき「島」の七画の状態を十分検討した形跡が見られない。例えば、資料5の「島」及び資料10の「島」の七画は左に飛び出していない。これらの違いにつき何ら説明がされていない。

8  弁護人の反対尋問で指摘された、例えば、次のような相違点につき十分な説明がないように思われる。

資料2と5の一画・二画、資料1と9の「る」、「す」、「重」の「里」につき違いがあるように見える。

資料1、2、4の「三」が等間隔でなく、三画が長いのに対し、資料10の「三原山」の「三」は等間隔でほぼ同じ長さである。

弁護人の相違点の指摘に対して、田中繁夫は、手書き、書字の気分、楷書か行書(的)か等の違いによるとの説明をする部分が多いが、何か一つの結論が出ると、それと違っている部分は、右のような理由により切り捨てる危険はないか(取捨選択の恣意性)ということも指摘できよう。

9  被告人の筆跡と思われる資料1ないし4と資料9、11、12(その各部分)が類似筆跡であるとする田中鑑定は、原鑑定と同様、江面寛、高橋憲一の各証言に照らし、この点につき誤っている可能性があるといわなければならない。

10  田中鑑定によると、被告人の筆跡と思われる資料1ないし4と資料5、6が類似筆跡というのは、同一人の筆跡である確率が六、七割であり、資料5、6のみを比較した場合、同一人の筆跡である確率は、六、七割であるというのであるから、この鑑定自体から、物品受領書の「小島」、「坂田」が被告人の筆跡であるとか、「小島」、「坂田」が同一人の筆跡であると認定することはできない上、前記指摘の点を考慮すると、右の確率自体も低下することになろう。

第五市川和義の証言(第一一六回)及び同人作成の鑑定書(弁一〇四)(以下、両者を併せて「市川鑑定」という。)について

一  市川和義は、国家地方警察本部科学捜査研究所写真課(現在の警察庁科学警察研究所文書研究室)等の勤務を経て、筑波大学医学部社会医学系非常勤講師及び日本大学歯学部(法医学)講師を兼任し、右写真課勤務の時から筆跡鑑定に従事してきた者である。科学警察研究所在職中に文書関係の鑑定を八〇件以上担当し、昭和六二年三月に同所を退職後も主に民事関係の筆跡鑑定を行っている。

二  鑑定資料

資料1は、物品受領書(「坂田」の署名あり)写

2は、物品受領書(「小島」の署名あり)写

3は、甲1名義の履歴書(身上書を含む)写

4は、甲1名義の誓約書写

5は、被告人から一瀬弁護人宛の手紙の写

6は、被告人作成名義の接見等禁止解除申立書写

7は、被告人作成名義の申入書(一九八六年一一月一八日付)写

8は、被告人の坂上富男宛の手紙写

9は、水溶紙(「富士山」で始まるもの)写

三  鑑定結果

資料1の「坂田」と資料2の「小島」には類似する筆法も見られるが、配字及び文字の構成にやや相違する点が認められ、別人による筆跡である可能性も十分に考えられる。

資料1と資料3ないし8の筆跡は、別人の筆跡と認められる。

資料2と資料3ないし8の筆跡は、別人の筆跡と認められる。

資料9と資料3ないし8の筆跡は、別人の筆跡と認められる。

四  鑑定理由の要旨

1  資料1、2の筆跡は、各字画線上に運筆上の震え、渋滞等の特異な筆致が認められるので、作為性が十分に考えられる。すなわち、作為筆跡における筆者の識別は、運筆状態や、文字の形状等から推察することは極めて困難であり、この種の筆跡においては筆者が永年の間に習得した文字の構成、配字、筆順等について検討することが望ましい。

資料1、2については、比較対象となる同一文字がない上、両資料とも二文字という極めて少ない資料であり、比較対照することは極めて困難である。さらに、両者とも著しく震えを帯びた画線で運筆され、作為性が十分に認められるものである。これらの資料につき筆跡の異同識別を行うことは、ほとんど不可能に近い。しかし、両資料とも、四角の枠内に書かれた二文字であるという共通点から、配字について比較することは可能であり、また、筆者が自己の筆跡を隠蔽することを十分に意識して記載した場合においても、文字の構成には、筆者本来の運筆上の個癖が往々にして表現されるものであるから、配字と構成について検討を行った。

2  資料1の「坂田」は、一般的に最も多いとされている中央部の左寄りに書かれているが、資料2の「小島」は、左寄りの下部で比較的個性的な配字特徴を示すものと考えられる。この点より配字上においては、両資料間に相違性があるものと考えられる。また、両者の筆法には類似する特徴も見られるが、これらの筆法は、作為筆跡にはしばしば認められるもので特に強い類似性とは考えられない。

次に、文字の構成について両資料を比較すると、資料1の「坂田」の字は両方とも極めて偏平型に構成されているのに対し、資料2の「小島」の字は、やや縦型に構成され、特に「島」の字は極めて縦長型に構成されている。

以上のとおり、「坂田」、「小島」には、配字及び文字の構成において相違する点が認められるから、別人による筆跡の可能性も十分に考えられる。

3  資料1の「坂田」と資料3ないし8の対照筆跡において最も大きな相違点は筆順の相違である。筆者本来の運筆上の特徴を隠蔽した作為筆跡においては文字の形態すなわち文字の構成に変化を与えることについては十分に留意されるが、筆順については無意識のうちに筆者本来の特徴が現れるものである。資料1の「坂田」の「田」は、対照筆跡となり正規の筆順である三画と四画を逆の筆順で運筆している。

資料1の「坂」は、土偏の二画が一画線よりやや高い位置から起筆され、一画線上部への突出し部もやや長い。また、一画収筆部に対し四画の起筆部もやや高い位置から運筆されるなど偏と旁の位置的関係において、正規の文字の構成で書かれている。これに対し、対照筆跡は、「坂」の一画が文字構成上やや高い位置に運筆され、その収筆部は四画の起筆部とほぼ同じ高さであり、このため、二画線起筆部の一画線上への突出しは比較的短い。すなわち、資料1と対照筆跡の「坂」は、偏と旁の位置関係や、文字の構成に相違性が見られる。

さらに、旁「反」部についても、資料1の七画起筆部が六画起筆部と極めて近接した位置から運筆されているが、対照筆跡の同部は、七画起筆部が六画の起筆位置からやや離れて低い位置から運筆される傾向が強い。この傾向は、六画が五画と連続する筆法で書かれた場合にも認められ、この筆者の運筆上の特徴と思われるもので、資料1の同部の筆法とは運筆上に相違性が見られる。

4  資料2の「小島」の「島」の七画の起筆位置は、二画収筆部の右方から運筆されているのに対し、資料3ないし8の対照筆跡の「島」の七画の起筆部は二画収筆部よりかなり左方から運筆され、起筆位置に相違性が見られた。また、資料2の「島」は、正規の二画線は、三画ないし五画の後で運筆された可能性が強く、特異な筆順と思われる。対照筆跡の「小」は、文字構成上三画が極めて長く運筆される傾向が見られる点で、資料2の構成とやや相違する。

5  資料3ないし8の「島」は、七画の起筆位置が二画の収筆部よりかなり左方から運筆される特徴が認められるのに対し、資料9の「島」の同部は、二画の収筆部の位置から起筆されている。また、「三原山」の字について、資料9と対照資料の同部を比較すると、資料3の「三原」の「三」は一画、二画に対し、三画が極めて長く運筆される傾向が認められるのに対し、資料9の「三原」は、「三」の一画、二画は、三画よりわずかに短い画線として書かれている。「原」の三画、九画及び一〇画の筆法等に相違性が認められる。さらに、「山」の二画縦画部と三画の筆法において、資料7の「山」は二画が右傾斜、三画が左傾斜の画線として運筆されているのに対し、資料9の同部はいずれもほぼ垂直な縦画線として運筆されている点で、運筆上の相違性が認められる。

五  市川鑑定の問題点

1  資料1の「坂田」、資料2の「小島」は、いずれも自然筆跡ではなく、作為筆跡としているが、左手書きか、懸腕法で書いたか、分からないし、作為筆跡のうち、偽造筆跡(他人の筆跡を真似して書こうとするもの)か、韜晦筆跡(自己の筆跡を隠蔽しようとしたもの)かも判明しないとしている。両資料の字は、二五ミリメートル四方と非常に小さいところに二字ずつ書いてあり、同一文字もないので、筆跡の特徴の把握が非常に難しいことを市川和義自身認めている。したがって、両資料から、筆者の稀少性又は恒常性を持った筆跡個性を見つけ出すこと自体が甚だ困難なことであるから、本件における筆跡鑑定には限界があるといわなければならない。

2  本件のような作為筆跡を対象として異同識別を行う場合には、文字の構成、すなわち形態上の特徴について比較することは、極めて困難であるから、起筆部・収筆部の運筆方向、筆順、配字、構成等、作為による筆跡においても無意識のうちに表現される筆者の個癖について比較検討するとしながら、この点について慎重な配慮もないまま、文字の構成、文字の形態上の特徴を比較の対象に入れている嫌いはないか。両資料には、右の筆者の個癖が比較的隠されていないというのは根拠が不十分である。例えば、「島」が極めて縦長に書いてあるのは、筆者が隠そうとして隠しきれなかった個癖であり、「坂田」が極めて偏平型に構成されている点は筆跡個性であるというのは断定に過ぎ、論証不十分である。

3  筆跡鑑定には、筆速、筆圧、筆勢、線質をも検討の対象とすべきである旨証言しながら、原本は資料1、2のみしか見ていないし、これらを検討の対象とした形跡は窺われず、本件筆跡鑑定の理由を専ら、「田」の筆順、「島」の七画の起筆位置の相違に置いているのは、検討不十分といわざるを得ない。

4  筆者本来の運筆上の特徴を隠蔽した作為筆跡においては文字の形態(文字の構成)に変化を与えることについては十分に留意されるが、筆順については無意識のうちに筆者本来の特徴が現れるものであるということが、本件筆跡鑑定の前提になっているが、この前提の正しさの論証が不十分である。すなわち、筆跡を隠す方法として筆順を変えることがあるとしながら、資料1の「坂田」の「田」の三画、四画の筆跡は、筆者本来の筆順であり、それは無意識のうちに表現された筆者の個癖であるというのは、論証不十分である。

5  資料1の「坂」と対照筆跡の「坂」について、偏と旁の位置的関係、文字の構成、七画の起筆部の位置を相違点としてそれぞれを指摘しているが、これらが稀少性を持った相違点であるとするには根拠が不十分である。

また、資料2の「小島」の「島」につき、七画が二画の収筆部の位置から起筆されていることは、筆者が自己の筆跡個性を隠す時に比較的気づかずに書いてしまったものであり、無意識のうちに表現される筆者の個癖と考えられ、これが、対照筆跡(七画が二画よりかなり左方から運筆されている。)との決定的な相違点であると指摘しているが、これが作為筆跡であることを考慮すると、このように断定できるか疑問がある。

その他、「坂田」、「小島」について指摘する特徴が無意識のうちに表現される筆者の個癖というのは、論証不十分である。資料3ないし8の対照筆跡には、資料1と同様、「田」について、横長(偏平)、三画縦画が左寄りのものもあるし、「坂」の偏の「土」の一画、三画が平行に近い形となって共通している点、「島」の六画について、短い点で共通するものもあることを検討していない。

なお、検察官からの反対尋問に答えて、被告人の筆跡である昭和六三年一〇月三一日付発信許可決定書写の「小菅」の「小」の三画は短く、起筆位置は低いので、資料2の「小島」と類似性が見られるとして、鑑定書とは異なり、「小島」の「小」の三画の長短、起筆位置の高低は、本件の筆跡が作為筆跡である以上、同筆、異筆の根拠になり得ない旨証言している。

第六宇野義方の証言(第一一六回)及び同人作成の鑑定書(〈証拠〉)(以下、両者を併せて「宇野鑑定」という。)について

一  宇野義方は、立教大学名誉教授で現在共立女子大学等の特任教授である。専攻は国語学であるが、その研究の過程で、書かれた文字が同一人のものか否か等、文字の比較、異同の研究をしている。これまで裁判所から嘱託を受けて筆跡鑑定をした経験はない。

二  鑑定資料

資料1は、物品受領書(「坂田」の署名あり)写

2は、物品受領書(「小島」の署名あり)写

3は、甲1名義の履歴書(身上書を含む)写

4は、甲1名義の誓約書写

5は、甲1名義の誓約書(保証人変更)写

6は、被告人作成名義の接見等禁止解除申立書写

7は、被告人作成名義の申入書写(一九八六年一〇月二二日付)

8は、被告人作成名義の申入書写(一九八六年一一月一八日付)

9は、被告人の一瀬弁護人宛の手紙(封書を含む。一九八五年九月一七日付)写

10は、被告人の一瀬弁護人宛の手紙(封書を含む。一九八六年三月一四日付)写

11は、被告人の坂上富男宛の手紙(封書を含む。一九八八年七月三日付)写

12は、水溶紙(「様」で始まるもの)写

13は、水溶紙(「上田君へ」で始まるもの)写

14は、水溶紙(「富士山」で始まるもの)写

三  鑑定結果

資料1と資料2の筆跡が、同一人の筆跡(以下、「同筆」という。)であるか、別人の筆跡(以下、「別筆」という。)であるかは断定できないが、別筆と考えるのが自然であろう。

資料1と資料3ないし11とは、別筆の可能性が大きい。

資料2と資料3ないし11とは、別筆の可能性が大きい。

資料12と資料3ないし11とは同筆であり、資料13、14と資料3ないし11とは別筆である。

なお、右の「別筆と考えるのが自然」というのは、「可能性が大きい」よりも弱く、確率は六〇パーセント、「別筆の可能性が大きい」というのは、確率が九〇パーセント前後という意味である。

四  鑑定理由の要旨

1  資料1、2の「坂田」、「小島」は、普通の書字方法である提腕法ではなく、懸腕法で硬筆を用いて書くか、又は意図的に線の震えを生じさせようとしたものと想像できる。もし筆癖をくらまそうという意図で書かれたとすれば、その筆者の字形や筆順等に関する知識と、自分の筆癖についての自覚が、どの程度の深さであるかが非常に重要な問題となってくるのである。仮に「坂田」と「小島」とを同一人が書くとした場合に、それを別筆のように見せかけることは、右のような知識、自覚が深ければ深いほど容易になるのである。したがって、その場合には、同筆、別筆の判定は不可能に近い。隠そうとしても隠せない筆癖の特徴はほとんど考えられないことである。ここでは、本人がそれほど深い知識・自覚を持っていない場合で、平素の習慣や筆癖がある程度まで反映していると仮定して考察を加える。仮に同一人が書くとして、もし本人が筆跡に関して相当程度の知識・自覚を持っていたのであれば、「坂田」と「小島」とを極端に異なるように見せる書き方をしたであろうが、ここではそれらの形跡がはっきりしないので、右の仮定を設けることは著しく不当であるとはいえないであろう。

2  一般に筆跡鑑定を行うには、多数の文字について、しかも同一の文字を何例か集めて、比較検討する必要があるが、ここには漢字二字のものが二例、すなわち全体で漢字が四字あるだけであり、しかも、そこには同一の文字は含まれていないのである。したがって、資料の乏しさは決定的である。このような条件の下で、「坂田」と「小島」とを比較してみる。

「坂田」と「小島」は、共に角張った形の特徴を持っているが、「坂田」は横長の形であり、「小島」は縦長の形である。両者とも、横の線は水平に近く、縦の線は垂直に近いが、起筆部分に相違が認められる。すなわち、「小島」の方には、特に右上から左下に書く線の部分に一点の押えがあるが、「坂田」の方にはそれがない。

「坂田」の「田」の中心の縦線は左寄りであるが、「小島」の「小」の字の中心の線はどちらかというと右寄りである。

受領印の枠の中の位置が、両者とも左寄りであるが、「坂田」の方はほぼ中央であるのに、「小島」の方は下の方に位置している。

また、仮に別人が筆跡をくらまそうとして書くとすれば、個人の筆癖により、右のような類似と相違の生じることは少しも不思議ではない。

以上は仮定の下での考察であるから、「坂田」と「小島」とが同筆であるとも別筆であるとも断定することはできない。しかし、同筆と仮定した場合にこれだけの相違があり、別筆と仮定した場合には少しも不審な点がないとすれば、別筆と考えるのが自然であろうと思う。

3  資料1と資料3ないし11についてみると、資料8、11の「坂」の旁の形がいずれも右上から左下に向かう二本の線が末の方でやや近接する傾向があり、資料7の「反」、資料6の「友」も同様であるのに対し、資料1の「坂田」の「坂」の旁の斜めの二本の線が平行に近い。また、「反」の一画が資料1ではかなり短いが、資料8、11、7、6では短くない。

資料9の「田」の中央の「十」の部分は縦線が先に、横線が後に書かれている。これに対し、資料1の「坂田」の「田」は中央の「十」の部分は横線が先に、縦線が後に書かれているのであって、両者は「田」の筆順が異なっており、この点は、資料1は被告人とは別の人物が書いたと考えられる有力な根拠になるであろう。

資料1の「田」の横線はほぼ水平であり、縦線はほぼ垂直であるが、資料6、11の横線はやや右上りである。また、中央の縦線が資料1では左に寄っているが、資料6ではほぼ中央であり、資料11ではごくわずか左寄りである。中央の横線が資料1ではほぼ中央(ごくわずか中央より上)であるが、資料6では中央よりも下である。一般的に横書きの場合には縦長の形をとり、縦書きの場合には横長の形をとる方が全体のバランスがよいとされているところ、同じ横書きである資料3の「田」が縦長なのは自然であり、資料1の「田」が横長なのは不自然である。中央の縦線は、資料3では左寄り、資料4ではほぼ中央(ごくわずか左寄り)であるが、資料6がほぼ中央であることを考え合せると、この点だけで資料1との同一性を認めようとすることは無理であろう。

筆跡をくらまそうという意図で、どこまで変えられるかは人によるが、右のような字形の相違点と筆順の違いから資料1と資料3ないし11とは別筆である可能性が大きいものと考える。

4  資料2と資料3ないし11についてみると、「小」の字につき、資料2の「小」の一画がやや湾曲していて終わりをはねていないが、資料9、10、11、3ではほとんどが真直ぐか逆の方向に湾曲して、終りは強く、あるいはかすかにはねている。二画は、資料2では起筆にためらいがあるが、他の例にはそれがない。三画は、資料2では終わりを右上にはねた形であるが、他の例ははね上げていない。資料2の一画は、どちらかというと右寄りであるが、他の例では中央又は左寄りである。

次に、「島」の字につき、資料2の「島」で目立つ点は、六画が著しく短いことと、八、九、一〇画の部分、つまり「山」の形が最初が斜め、最後がやや右に傾斜した形であることであるが、資料3、4、5の「島」は六画が長いとはいえないものの、ほとんどが三画の後半の線の延長上にまで達していて、明らかに違っており、また、「山」の形が最初が垂直、最後が左上から右下にかなり傾斜した形である。

さらに、資料2の「島」は二画の終りと七画の最初が密着しているのに対し、資料3、4、5、9、10では、その部分が離れ、七画の最初が左に突き出している。この左に突き出している点は、かなり特異な筆癖であると考えられる。

これらの文字を書いた時期の隔たりと、筆跡をくらまそうという意図の有無を考慮しても、両者はかなり違うという感触があり、別筆である可能性が大きいものと考える。

5  平仮名の「で」につき濁点を「て」の右上でなく右脇に書くこと、「な」につき右半分が「ナ」の上から始まるのが被告人の筆跡の特徴と認められるところ、この筆癖からすると、資料12はほぼ間違いなく被告人の筆跡であると判断でき、資料13は被告人の筆跡とは考えられない。資料14は、被告人の筆跡に特徴的な「島」の一部分の「山」の三画の角度、「島」の七画の起筆の位置とは著しく異なるので、被告人の筆跡とは別筆であると考える。

五  宇野鑑定の問題点

1  資料1の「坂田」、資料2の「小島」がいずれも作為筆跡としているが、懸腕法で書いたか、意図的に手を動かして書いたか、またその他の方法で書いたかは断定していない。つまり、資料1、2の筆跡においてどのような作為が用いられたかは判明していない。その上で、仮に「坂田」と「小島」とを同一人が書くとした場合に、それを別筆のように見せかけることは、筆者の字形や筆順等に関する知識と、自分の筆癖についての自覚が深ければ深いほど容易になり、しかも、隠そうとしても隠せない筆癖の特徴はほとんど考えられないから、その場合は、同筆、別筆の判定は不可能に近いとしている。

ところが、本件においては、資料1、2の筆者は、字形や筆順等に関する知識と自分の筆癖についての自覚をそれほど深くは持っていないし、平素の習慣や筆癖がある程度まで反映していると仮定して考察を進めているが、合計漢字四文字しかなく、同じ字がない本件において、この仮定が合理的かどうか十分な根拠を示していない。むしろ、作為筆跡の場合には、一字ごとに思いつき的な運筆が行われることが多いのではなかろうか。

2  資料1、2の「坂田」、「小島」について、筆速、筆圧、線質(線の雰囲気)は検討していない。

3  作為筆跡の場合、意図的に筆順を変えることがあるとしながら、本件では、「坂田」の「田」の三画と四画の筆順の相違点を最大の根拠として、資料1の「坂田」が被告人の筆跡と異なる旨鑑定しているが、十分の合理性を持つといえるであろうか。

4  資料1、2の「坂田」、「小島」につき指摘している特徴が、稀少性又は恒常性を持った特徴といえるか論証不十分である。

例えば、資料1の「坂」の旁の斜めの二本の線が末の方で近接せず平行に近いとする点、「田」の中央の縦線が左寄りであるとする点、資料1の「田」の横長は不自然であるとする点、資料2の「小島」の「小」の一画がやや湾曲して終りをはねていないとする点、「島」の六画が短いとする点は、いずれも、他の対照資料や被告人作成の昭和六三年五月一〇日付発信許可決定書添付の信書写等と比較対照すると、稀少性ある特徴といえないように思われる。

5  資料2の「島」は二画の終りと七画の最初が密着しているのに対し、被告人の筆跡と思われる資料3、4、5、9、10では、その部分が離れ、七画の最初が左に突き出している点を最大の根拠として、資料2の「小島」が被告人の筆跡でないとしているが、「小島」が作為筆跡であることを考慮すると、このように断定してよいか疑問が残るといわなければならない。

第七石川巌の証言(第一一八回)及び同人作成の鑑定書(〈証拠〉)(以下、両者を併せて「石川鑑定」という。)について

一  石川巌は、現在京都市立芸術大学等の非常勤講師であり、書道史等を教えるとともに、書学書道史学会の常任理事をしている者であるが、近代の文士、書家の書蹟の鑑定のほか、裁判所からの委嘱により筆跡鑑定したもの二件、弁護士事務所から意見を求められて回答したもの十数件の、筆跡鑑定の経験がある。刑事事件における筆跡鑑定は本件が初めてである。

二  鑑定資料

資料1は、物品受領書(「坂田」の署名あり)写

2は、物品受領書(「小島」の署名あり)写

3は、甲1の名義の履歴書(身上書を含む)写

4は、甲1の名義の誓約書写

5は、甲1の名義の誓約書(保証人変更)写

6は、甲1の名義の普通預金払戻請求書(昭和五九年八月八日付)写

7は、甲1の名義の普通預金払戻請求書(昭和五九年一一月一四日付)写

8は、甲1の名義の普通預金払戻請求書(昭和六〇年一月七日付)写

9は、甲名義の賃貸借入居申込書写

10は、甲名義の液化石油ガス法第一四条に基づく書面の受領書写

11は、水溶紙(「様」で始まるもの)写

12は、水溶紙(「甲」で始まるもの)写

13は、水溶紙(「上田君へ」で始まるもの)写

14は、水溶紙(「富士山」で始まるもの)写

15は、水溶紙(「上田友彦」で始まるもの)写

ただし、太線で囲った部分を15の1、それ以外の部分を15の2とする。

16は、水溶紙(「増田栄三」で始まるもの)写

ただし、太線で囲った部分を16の1、それ以外の部分を16の2とする。

17は、要望九一号写

18は、被告人作成名義の接見等禁止解除申立書写

19は、被告人作成名義の申込書写(一九八六年一〇月二二日付)

20は、被告人作成名義の申込書写(一九八六年一一月一八日付)

21は、被告人の一瀬弁護士宛の手紙(封書を含む。一九八五年九月一七日付)写

22は、被告人の一瀬弁護士宛の手紙(封書を含む。一九八六年三月一四日付)写

23は、被告人の坂上富男宛の手紙(封書を含む。一九八八年七月三日付)写

三  鑑定結果

1  鑑定事項は、鑑定資料3ないし23の筆跡のうち、被告人筆跡の特定、ただし、資料18を被告人自筆のものであることが明らかなものとし、資料18と資料3ないし17、資料19ないし23との異同、右によって特定された被告人の筆跡と資料1、2の筆跡の異同、というものである。

2  鑑定結果は、次のとおりである。

資料3ないし12、15の1中の「自」字及び15の2、16の2、17、19ないし23は、資料18と同一の筆者、つまり被告人が書記したものである。

資料13、14、「自」字を除く15の1、16の1は、資料18とは異なる別人が書記したものであり、被告人が書記したものではない。

資料1、2は、資料18とは異なる別人が書記したものであり、被告人が書記したものではない。

四  鑑定理由の要旨

鑑定の理由を、検察官請求の筆跡鑑定との対比上、必要な範囲内で示すと、次のとおりである。

1  資料18と資料13(「上田君へ」で始まるもの)について「一つの点」において、資料18の筆者は点を打ってから左下に向けて力をゆるめて次の横画に連続する基本運筆が抽出されるが、資料13の筆者は、右下に点を書いた後、次に来る横画に回転しながら連続するため、点を横画が横切るような基本運筆が抽出される等、基本的字画運筆の筆触が異なっている。

「身」の三画が転折にならずに横画と縦画に分断され、横画が長く縦画よりはるかに右にまで伸びているという資料13の稀少な書字法が資料18には確認されない。

「二つの点」においては、第一の点の入射角度に差異が観察される。

資料13においては、資料18の筆者のように左下への動きが強調されずに、横への運筆が強調されることによって、「日」や「田」部が結果的に平板な、圧しつぶしたような字形に結果する傾向が一定している。

資料13と資料18の平仮名文字形は一見近似しているように身受けられるが、資料18に見られる「な」の点が第一筆(横筆)収筆部よりも上部に来る例外のない特異性、稀少性や、「る」の第一筆が左上から右下へ中凸(ふくらみ)で長く運筆された後、直線的に第二筆(回転部起筆)に転じる運筆、「で」において第一筆と第二筆後半部が強勢になるところから必然的にその間を結ぶ第二筆前半部が弱勢となり、また点が第一筆より相当下部に打たれる稀少性等が資料13の書字法と全く相違している。したがって、資料13は、被告人の筆跡ではない。

2  資料18と資料14(「富士山」で始まるもの)について

「島」において、七画転折以前の横筆部が三画よりも右の方へ張出しはみ出るような文部省式の(この部分については資料18の筆者にも認められる。)一般的な書き方が資料14には見られず、また、資料18の筆者は「三」において、一画、二画を三画より短くしているのに対し、資料14の筆者は「三」の三つの画の長さを揃えるように書字しており、両者の書字の規範的認識が相違している。

さらに、こざとへん、一つの点の描法、「当」、「桜」等の「ツ」部、がんだれ、「山」において書字法が異なる。したがって、資料14は、被告人の筆跡ではない。

3  資料18と資料15(「上田友彦」で始まるもの)の「自」字を除く15の1について

「特」の牛偏の書字法が異なり、「情報」のりっしんべん及び「報」の旁の筆順、字画構成法が異なる。「獄」、「独」のけものへんの筆順、結字法が異なり、「松」の書字法が異なる。

したがって、「自」字を除く資料15の1は、被告人の筆跡ではない。

4  資料18と資料16(「増田栄三」で始まるもの)の1につき、「増」、「美」の文字上部に来る二個の点「ソ」、「栄」、「営」の文字上部に来る三個の点「ツ」、「野」、「町」の最終画、「号」の最終画の書字法等に相違があるから、両者は別人の筆跡である。

5  資料18と資料1の「坂田」について別人の書字と判定した理由は、次のとおりである。

資料1は、筆画の震えたような形状が観察されるが、これは筆画に揺れの形状を生じるような特殊な条件下(比較的薄い用紙が、表面が平滑で固い物質上に置かれ、ボールペンという筆記具が使われたことを指す。)で、あたかも図形を描くかのように、ゆっくりと運筆したことによって生じたものである。これは、通常の運筆よりもゆっくりと書かれているという点で、運筆速度に筆跡の韜晦が見られるものの、「坂田」の字画の形状、字画関係、字画構成は一定の均衡を保っていて、過剰に字画を伸長したり、構成を意図的に歪めたりした形状とはいい難い。一般的に筆跡の韜晦を意図して書字した場合には、ある部分が強調されたり減衰されるところから、字形の均衡が破れ、字形が構成的に不安定で不自然なものになる。つまり、筆触上の速度はゆっくり書くことによって若干韜晦しているものの、構成的には、意図的な強い韜晦は認め難い。この程度の筆跡韜晦下では書記者に膠着した運筆筆触は必ず筆跡中に認められるものである。

両者には、次のような主たる相違点がある。

(一)  資料1の「坂田」の「田」は文部省式とは異なり、三画に横画、四画に縦画の筆順で書かれているのに対し、資料18の筆者は、「田」につき、三画に縦画、四画に横画の文部省式の筆順で書いている。筆跡を韜晦する意図をもって書く場合にも、平常の筆順で書字されるものである。しかも、「坂田」の筆跡のように、韜晦といっても、字画の長短、字画構成、結字にはほとんど韜晦の跡が見られない場合に、資料18の筆者が無理に筆順を変えて書いたとは認められない。

(二)  資料1の「坂」の書字について、資料18の筆者による筆触特性が全く認められない。

資料18の筆者は、偏と旁を極めて接近させて書字する定性を持っているのに対し、資料1の「坂」は、偏と旁が完全に分離して書かれている。資料1の「坂」の旁の一画の長さが三画水平部の右端にまで至らず極端に短いのに対し、資料18の筆者の「坂」や「反」は、旁の一画の長さが三画横筆部右端に揃えるように書字する隠れた構成性向を持ち相違している。資料18の筆者は、「坂」の旁部最終画を二画と三画始筆の接点より下部の方から書き出す傾向が見られ例外がないが、資料1の「坂」においては、二画と三画始筆部の接点付近から四画を起筆しており、相違している。

(三)  資料1の「田」について、資料18の筆者による筆触特性が確認されない。

資料18の筆者は一画(縦画)の起筆を書き表した後に縦画を書くことから、連続的にではなく孤立的にゆっくりと書く時には、勢い、文字全体に対して左側に位置する縦画は中央部が右にふくらんでおり、資料1と相違する。資料18の筆者が水平、垂直を運筆基準とし、ゆっくりと、「口」部を四角く描出しようとする際には基本的に二画横筆部中央は下に凹ませ、その後の転折部でその反動として転折部が尖り、転折後の縦筆は中央部が左へふくらむのに対し、資料1においては肩がやや丸くなり、直線的に右下に引かれている。資料18の筆者は「田」の三画(縦画)を「口」の中央に書字しようという規範を持っていると考えられるのに、資料1においては縦画が「口」部左側に位置している。

6  資料18と資料2の「小島」について別人の書字と判定した理由は、次のとおりである。

資料2についても資料1と同様の理由による運筆速度の韜晦が見られるが、構成的韜晦の跡は認められない。資料2には筆画に震えが見られるが、文字の結字、結構状態には、意図的な崩れや、字画構成が不均等になったり、文字形が無理に歪まされた跡が観察されず、資料1と同様、筆画に揺れの生じる特殊な条件下で書記された比較的率意の書であると判断される。

両者には、次のような主たる相違点がある。

(一)  資料18の「島」は、文部省式の筆順で書いてあるのに対し、資料2の「島」の筆順は、一画、三画、四画、五画、二画という極めて稀少な筆順である。

(二)  資料2の「小」に資料18の筆者の筆触特性が認められない。偏と旁の構成を接近させる傾向の強い資料18の筆者には、「小」においても二画、三画を形成する二つの点を一画に接近させる傾向が見られるが、資料2の「小」にはその傾向が確認されない。

(三)  資料2の「島」に資料18の筆者の筆触特性が認められない。資料2においてはゆっくりと書字されているにもかかわらず、「山」部がその上部(七画)と完全に離れており、資料18の筆者が潜在的に持っていると考えられる構成法と異なる(偏と旁を接するように書く傾向を持つ資料18の筆者は、「島」においても、両者を接して書く規範を有していると考えられる。)。

資料2では、「山」部の一画が傾き、三つの縦画が縦にごく短い三本のほぼ同じ長さに描出され、いわば上から圧しつぶしたような形で書字されているのに対し、資料18においては、「山」ないし「山」部は一画を長く垂直に書く定性があり、しかも、最終画が右下に向けて強く引かれることが多い。

資料18の筆者は、例外なく、「島」の七画起筆部より右下に埋まるように「山」部を書くのに対し、資料2の「山」は異なる。

資料2においては、「島」の七画が少々右にはみ出すだけであるが、資料18の筆者は、七画を右に極端にはみ出す文部省式の描出法に従っていて、全く相違している。

資料2においては、「島」の七画転折以降部は右下に向けて下ろされ、かつはねを伴わないのに対し、資料18の筆者はすべてこの部分を左下へ向かう運筆によって書字しており、一致しない。

資料2と資料18の筆者に共通する書字法は文部省式に反して「島」の六画が三画縦筆部より右に出ないことであるが、接筆状態、長さ等に明らかに両者の差は認められるものであり、また、この書字法は広い範囲に認められるものであるから、この事実をもって同一人の書字であると判断することはできない。

五  石川鑑定の問題点

1  資料1、2の「坂田」、「小島」につき、運筆速度には筆跡の韜晦が認められるが、構成を意図的に歪めた構成的韜晦は認められないということを大前提にし、この程度の筆跡韜晦下では書記者に膠着した運筆筆触は必ず筆跡中に認められるとしているが、このように断定する論拠が十分でない。

2  資料1、2の「坂田」、「小島」につき、ボールペンを提腕法で書いたと断定し、枕腕法、懸腕法を否定しているが、この論拠も十分でない。

3  資料1の「坂田」の「田」の三画と四画の筆順が被告人の筆跡である資料18のそれと異なることを、別筆の大きな根拠としている。資料2の「小島」の「島」の筆順についても同様の判断を示している。その判断の前提として、筆跡を韜晦する意図を持って書く場合にも、平常の筆順で書字されるとし、その理由として、筆順というものは、書記者にとって無意識層にまで沈んでいるので韜晦の場合にも平素の筆順が現れると説明しているが、この点に関する論証が不十分である。

4  筆跡相互間の類似点に関する検討が十分行われているか疑問なしとしない。筆跡相互の類似点につき、別人が書いても十分に出てくる範囲のものであるとして、同筆性の根拠にならないと判断するところが多々見られるが、その判断の基準が主観的に流れる危険はないであろうか。例えば、資料1の「坂」と資料20の「坂」につき、「反」の三画の転折部が鋭角である点、土偏の一画と三画が平行に近い点に類似性が認められる。

5  被告人の筆跡では、「坂」の旁部最終画を二画と三画始筆の接点より下部の方から書き出す傾向が見られ例外がないと断定しているが、資料18、19の「反」、検察官が反対尋問で示した被告人の一九八八年八月一二日付衆議院議員坂上富男宛の封書及び手紙写中の「坂」には、これとは異なるような状況が見られる。この点に関する説明は必ずしも説得的ではない。

6  資料2の「島」について、六画が二画に接筆しないことは、筆者の無意識の筆順と書字法が露出したものと判断できるとして、六画が二画に接筆している被告人の筆跡の特徴と異なる旨述べているが、資料2の「小島」が作為筆跡であることを考慮に入れると、このように断定できるか論証不十分といわなければならない。

第八山下富美代の証言(第一一九回)及び同人作成の筆跡鑑定に関する意見書(弁一一九)(以下、両者を併せて「山下鑑定」という。)について

一  山下富美代は、早稲田大学大学院文学研究科心理学専攻終了で、昭和三四年から約五年間警視庁科学検査所(現在の警視庁科学捜査研究所)に勤務して筆跡鑑定に従事した経験を持ち、現在は立正大学教授として心理学を担当し、認知心理学の中のパタン認知を研究している者である。

二  鑑定資料は、石川鑑定のそれと同一である。

三  鑑定結果

1  鑑定事項は、資料1及び2と、鑑定資料3ないし23のうち被告人自筆と思料される筆跡との異同、資料1と2の筆跡の異同、というものである。

2  鑑定結果は、次のとおりである。

資料1及び2と、資料3ないし23のうち被告人自筆と思料される筆跡とは、別異筆跡であり、資料1と2の筆跡については、その異同を断定するには至らない。

四  鑑定理由の要旨

1  山下鑑定においては、異同比率に基づく形質水準を中心に筆跡鑑定を行い、パタン識別から見た鑑別、書字能力から見た鑑別、その他の鑑別の結果を総合考察する、という鑑定方法である。

(一)  形質水準から見た場合は、筆跡特徴の抽出指標として、配字形態(大きさ、角度等)、書字速度(筆勢)、筆圧、筆順、字画形態(ある字を構成している何本かの字画線の形態)、字画構成(ある字を構成している各字画線がそれぞれどのような大きさ、角度、間隔で構成されているか、その構成の仕方)が挙げられるが、意識的に筆跡を変える時はもちろんのこと、情緒的刺激が加わったり、あるいは、被影響性の高い人などでは配字形態、字画形態、筆圧、速度等に変化が生じ、恒常性が乱れる場合が生じる。ただし、字画構成については、比較的恒常性が高い。また、相対的筆圧(各字画線間の圧力の強弱比)の恒常性も認められているが、書字行動時における筆圧は、筆圧測定器等の装置を用いれば測定可能であるが、既に書かれた文字についての筆圧は測定不可能であり、筆勢等を推定するにとどまる。したがって、特に恒常性の高い字画構成に主点を置いた異同の鑑別を行う。

二つの筆跡の字画構成を比較するには、それぞれの筆跡から共通する同一文字を最低四文字以上選出して行う必要がある。同一文字がない場合は、少なくとも同じ旁、同じ偏を選出して比較対照を行う。しかし、同一人が書いた同一文字であっても、すべての字画形態、字画構成の特徴が全部同じ特徴ということはないし、また、別人が書いた筆跡であっても、全く異なるということもない。したがって、筆跡を鑑別する上で重要なことは、個人内変動及び個人間変動の幅を見きわめておかなければならない。そのためには、対照する二つの筆跡の同一文字の字画構成の特徴中、どの程度の割合で同一特徴が検出された場合を同一筆跡とみなすか、逆にどの程度以下の割合なら別異筆跡とみなすかという鑑別基準が求められる。これには、かなりのサンプル数を対象とし、個人内、個人間の比較を行い異同比率に基づいて、鑑別基準を作成する。異同比率は、同一特徴個数を比較特徴総数で除して一〇〇を乗ずることによって算出する。異同比率が七〇パーセント以上のときは同一筆跡、四五パーセント以下のときは別異筆跡、四五ないし六〇パーセントのときは異同不明、六〇ないし七〇パーセントのときは、配字形態、筆勢、筆圧、筆順、その他の特徴の異同を参考にして、同一筆跡、異同不明のいずれかに鑑別する。

(二)  パタン識別から見た場合として、ゲシュタルト的要因から見た鑑別、量子化パタンから見た鑑別がある。

前者は、紙面に対する大きさ、位置、角度、曲率方向等ゲシュタルト的要因に基づく文字のパタンとしてのまとまり方の比較対照である。ゲシュタルト的要因としては、近接(間隔の近さ)、類同(同一又は類似性質)、良き連続(連続の方向、形に無理のないもの)、共通運命(運動の方向、流れにおける共通性)、閉合(閉じ合うもの、一つの面を囲むもの)、良き形態(簡潔性、統一性、規則性、対称性)が挙げられる。

後者は、文字をメッシュ及び線エレメントによって表記するような量子化の方法であるが、特にメッシュ文字については、パタンの構造的特徴を分析し、識別する上で有効と考えられる。量子化文字の変換方法は、次のような手続によって行う。各文字(原寸大×約一〇倍大)を四〇×四〇=一六〇〇セルのメッシュ板に重ね、各字画部分の占める、縦・横ごとのセルを読み取り、グラフィックパタンを作成する。なお、縦列(Xⅰ)、横行(Yⅰ)一つずつにその値を読み取っていけば、数量的分析も可能であるが、ここでは、グラフィックパタンの特徴による比較検討のみを行う。

(三)  書字能力から見た鑑別というのは、漢字出現率(一文章中どのくらいの割合で漢字が使用されているか、全文字数のうちに占める漢字の割合によって算出する。)、配字形態・調和性・筆勢等からいわゆる熟達した字が否かの比較、誤字・当て字・脱字の有無とその共通傾向の有無の諸点から、書字行動の発達的水準を検討し、その能力上の比較対照を行う方法である。

(四)  その他の鑑別は、特有の癖、独特の略字や崩し字等の出現の有無等を比較するものである。

2  資料3ないし23の中から被告人自筆のものか否かを鑑別した理由を省略し、鑑定事項に限ってその理由の要旨を示すと、次のとおりである。

(一)  資料1及び2と資料3ないし23のうち被告人自筆と思料される筆跡の異同について

被告人の筆跡と認められる資料3ないし12及び17ないし23から資料1の「坂田」と共通の文字を抽出し、その異同比率を算出すると、平均値約三五パーセントであり、同様に、資料2の「小島」と共通の文字を対照資料から抽出し、その異同比率を算出すると、平均値約三六パーセントである。

ただし、資料1及び2に記載されている文字が二字ずつと僅少なこと、両資料の筆跡に作為的、意図的な書字傾向が窺えることなどを考慮すると、異同比率のみによる鑑別だけでは不十分であるので、両子化文字の手続を取り、そのグラフィックパタンの特徴から、「坂田」、「小島」の筆跡について、比較対照を行った。

資料1の「坂」はやや横長の偏平的な長方形パタンを示しており、偏部(土)が旁(反)より上方に位置している。これに対し、資料20、23のパタンは、資料20を除き、やや縦長の長方形に近い。また、資料20を含め、総体的に、偏部より旁部の位置が上方にあり、かつ偏部と旁部が資料1のそれよりも近接している。なお、偏部、旁部の分割量子化パタンについても異なる特性が示されている。

「田」についても同様に、資料1は横長の偏平なパタンを示しているのに対し、資料3、4、12、18、21は総体的に右上がりの平行四辺形に近いパタンを示している。資料1にやや近い四辺形は資料11のパタンであるが、これはやや縦長のパタンであり、三画及び四画の位置関係が、資料1の左寄りとは異なり、ほぼ中央にある。

「小」の量子化パタンについては、資料3、12、21、22に共通する固有のパタンを抽出し得ないが、大別すると、やや縦長の三角形に近いパタンと梯形に近いパタンが認められる。これに対し、資料2は、ややピラミッド型に近いパタンを示している。

「島」については、資料2が横長の四角形の上に縦長の四角形が右寄りに乗る形として、量子化パタンは表されるのに対し、対照資料は、横長の四角形に縦長の四角形がほぼ中央に乗る形として、量子化パタンは表されるものが多い。

以上のパタン識別上の特異性の検出等も加えて考察すると、資料1及び2と被告人の筆跡と認められる資料3ないし12、17ないし23とは別異筆跡と鑑別される。

(二)  資料1と2の筆跡の異同について

両資料間には同一文字及び同一偏・旁はないから、字画構成、字画形態の特徴の比較対照を中心とした異同比率に基づく鑑定は行えない。そこで、両資料に示されている署名欄の漢字二文字を各々図形パタンとみなし、両パタン間における特性をゲシュタルト的要因によって抽出し、比較検討を試みた。その結果、次のような諸要因において類似傾向が認められた。記載欄(受領印)のスペースに占める位置及び大小関係について、資料1、2とも、記載面に占める位置は中心部より左寄りで、四×四=一六セルのうち、三×四=一二セルの中におさまっている。特に記載文字の一番目の文字の位置は、第一行第三列目の左寄りに極めて近接した位置を占めている。また、資料1、2ともに、記載面に占める文字の相対的大きさは、ほぼ四×四=一六セル中の一セル分を占め、資料2の「島」を除き、やや偏平な形態を示している。パタン体制化の要因から見た特徴については、資料1の「坂田」、資料2の「小島」の各パタンは、「坂」と「田」及び「小」と「島」の間隔は密接しており、近接の要因によるパタン形成傾向が認められる。なお、個別パタンの形成要因中、顕著に認められるのは、不自然な連続(震え、屈曲)であり、これも資料1と2に共通の傾向である。

先に見られるような、不自然な震え、屈曲を伴い線筆傾向は、往々にして通常の記載状況とは異なる条件の下で書かれた場合に生じやすい。例えば、作為的・意図的な隠蔽の下で書かれる筆跡は通常の書字速度よりも遅くなりがちで、ゆっくりした、筆勢の乏しいものとなる。また、全般にその筆跡パタンは角張ったものとなりやすい。資料1、2ともに、そのパタンはやや角張り、筆勢の乏しさは字画線の震えや収筆部のバネのなさに如実に示されている。震えを帯びた不自然な収筆は、往々にして、不安定な書字条件―記載台の凹凸、懸腕による記載、記載用具の上端を持った書き方等によって生じる。以上の点から、資料1と2は、通常の書字状況とはやや異なる不自然な作為的な筆跡と思料される。

したがって、配字形態上(パタン特徴)両資料に共通類似傾向が認められるものの、作為的意図を持った場合の書字行動の結果は、概して類似パタンを生じやすいことを考慮すると、資料1及び2には、類似傾向が認められるものの、同一筆跡と断定するには十分な根拠に欠けるといわざるを得ない。

五  山下鑑定の問題点

1  山下鑑定は、意識的に筆跡を変える時はもちろんのこと、情緒的刺激が加わったり、あるいは、被影響性の高い人などでは配字形態、字画形態、筆圧、速度等に変化が生じ、恒常性が乱れる場合が生じるが、字画構成については、比較的恒常性が高いとの判断を大前提にして、異同比率の算出をしているが、この前提が正しいものであるかについて論証不十分といわなければならない。

2  山下鑑定の異同比率の算出による筆跡鑑定は、警視庁科学検査所勤務時に上司の町田欣一の採用していた方法というのであるが、これが本件のように自然筆跡とは異なる作為筆跡の鑑定にも適用できるのか、さらには、山下鑑定にいう量子化文字パタンによる鑑別方法が有効なのか、その論証不十分である。検察官の指摘によると、現在、警視庁科学捜査研究所では異同比率による鑑別方法を採用していないというのである。

そして、異同比率による鑑別方法によると、個々の筆跡の特徴につきウエート付けをしないため、筆跡の稀少性は、全く考慮されないことになる。

ちなみに、石川巌は、その鑑定書の中で、一般論として、町田欣一の異同比率の算出に基づく筆跡鑑定の方法は、それなりに評価できるが、文字を図形として据え、単なる結果的、部分的な文字形状や字画構成の数値分析だけでは、原理的に筆跡鑑定とはいえない、したがって、数値分析自体がいくら科学的な装いをこらしても、比較対照した特定の文字や文字部分の異同はいい得ても、そのことは、書記者の異同にまでは至り得ないという原理的不備が存在するものである、この方法によっては、書記者に膠着した運筆律、筆触律と現に存在する字画構成法や字画運筆方向との間のずれや異同を合理的に説明し得る方法が存在しない旨指摘しているのである。

3  鑑別基準につき、異同比率が七〇パーセント以上のときは同一筆跡、四五パーセント以下のときは別異筆跡、四五ないし六〇パーセントのときは異同不明、六〇ないし七〇パーセント以内のときは、配字形態、筆勢、筆圧、筆順、その他の特徴の異同を参考にして、同一筆跡、異同不明のいずれかに鑑別するとし、その根拠として、同一筆跡、別異筆跡各一〇〇サンプルずつについて異同比率を算出しその分布を示した折れ線グラフ(異同比率の分布曲線)を利用しているが、このサンプルは、いずれも自然筆跡のみのサンプルであって、作為筆跡のサンプルを収集して分析した異同比率の分布曲線はない。

しかも、異同比率の分布曲線に示されたものは、あくまで一般的、平均的な統計値であり、これからはずれて一〇〇パーセント完全に一致する場合が出現する可能性も零ではないし、同一人の筆跡でも、異同比率が五〇パーセントをさらに低く割るという可能性も零ではないというのであるから、異同比率による筆跡鑑定はあくまでも同筆か別筆かの可能性の有無にとどまるのではないかと思われる。

4  異同比率算出の基礎となる比較特徴点の抽出方法に客観性が保持できるか疑問なしとしない。すなわち、同じ文字でも資料が異なれば、異同比率算出の分母となる比較特徴総数は異なるし、同一資料に同一文字が複数ある場合には、どの文字を比較の対象にするか任意に行うというのであるから、主観が入る余地がある。また、いくつかの字画構成上の特徴点が抽出されると自ずから他の字画構成上の特徴が決まり、独立の特徴点として取り上げることができないものが生じるのではないか、すなわち、特徴点相互間の独立性の有無・程度の判断に客観的な基準があるか疑問がある。

5  山下鑑定は量子化文字パタンを補充的に利用しているが、パタンによる識別基準はなく、全く視覚的なパタン判別であるから、ここに主観が入る危険がある。量子化文字パタンは、書かれた文字のパタン特徴を大雑把に示すものであるから、あくまで、パタン分析は、類型的な診断にとどまり、個人識別まで可能かという点については、山下富美代自身確証がない旨証言しているのである。

第九結論

一般に筆跡鑑定を行うには、多数の文字について、しかも、同一の文字を何例か集めて比較検討する必要があるが、本件の物品受領書の「小島」、「坂田」の署名については、比較対象となる同一文字及び同じ偏や旁がない上、両資料とも二文字という極めて少ない資料であり、しかも両者とも著しく震えを帯びた画線で運筆され、作為性が十分に認められるものである(おそらく、自己の筆跡を隠そうとする韜晦筆跡であろう。)。この両者が、自然筆跡ではなく、作為筆跡であることは、いずれの鑑定書も認めているところである。そして、宇野鑑定は、自己の筆跡を隠そうとする韜晦筆跡の場合、隠そうとしても隠せない筆跡の特徴はほとんど考えられないとしている。したがって、市川鑑定及び宇野鑑定の指摘するとおり、両者間の筆跡の異同識別を行うことはほとんど不可能に近いと見るのが合理的であろうし、また、これらを資料として他の被告人の筆跡との同一性を鑑定することも、著しく困難を伴うものと考えるのが自然であると思われる。

右のような本件における筆跡鑑定の困難性に加え、先に指摘したような個々の筆跡鑑定の問題点を総合考察すると、検察官主張のように森岡、原各鑑定に基づき物品受領書の「小島」、同「坂田」の署名が同一人の筆跡であるとするには疑問があるのみならず、他方、弁護人申請の市川、宇野、石川及び山下の各鑑定に基づき右各署名が被告人の筆跡ではないと断定することもできないと結論づけざるを得ない。

八  電磁弁、圧力調整器の販売先捜査について

第一検察官の主張の要旨

検察官は、被告人が昭和五九年八月一日シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所で購入した電磁弁一〇個、同社秋葉原営業所で購入した圧力調整器五個のうち、電磁弁八個、圧力調整器四個が本件自民党本部放火事件の火炎放射装置の部品として使用され、残り二個、一個は、新潟県西蒲原郡黒崎町大字立仏字百目山四四〇―三株式会社伊藤組倉庫から発見押収されたものであると主張し、その主な理由として次の点を挙げている。すなわち、

(1) 警察官が本件自民党本部放火事件の火炎放射装置の部品として使用されたものと同一型番の電磁弁及び圧力調整器の販売先を捜査した結果、販売先不明(不審購入者)の範囲が極めて限定され、特に、右火炎放射装置に使用された八個に達するような一度に七個以上の電磁弁をまとめて買いながら身元が判明しない購入客は昭和五九年八月一日の分のみであること

(2) 密行性を重視する中核派革命軍は、身元を割り出される危険性があるから、右火炎放射装置に使用された八個の電磁弁(以下「遺留電磁弁」ともいう。)をその個数に達するまでばら買いした可能性は考え難いこと

(3) 本件遺留電磁弁のコイルナンバーの組合せ等から見て、同電磁弁は被告人が購入した電磁弁一〇個の一部であると認められること

(4) 本件犯行に使用された電磁弁及び圧力調整器と前記伊藤組倉庫で発見押収された電磁弁及び圧力調整器がいずれもシーケーディ製のものであること

(5) 被告人が昭和五九年八月一日シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所で購入した電磁弁一〇個、同社秋葉原営業所で購入した圧力調整器五個のうち、電磁弁八個、圧力調整器四個が本件自民党本部放火事件の火炎放射装置の部品として使用され、この残りの二個、一個の個数に見合う電磁弁及び圧力調整器が前記伊藤組倉庫で発見押収されていること

(6) 中核派は火炎放射ゲリラ事件において、電磁弁二個、圧力調整器一個を一セットとして使用し、昭和五九年八月一日の部品購入時、本件犯行時及び前記伊藤組での発見押収時の両者の比率がいずれも二対一であること

(7) 前記伊藤組での発見押収された電磁弁のコイルナンバーが「四六〇四」「四六〇一」であり、本件で使用されたものと一致又は近接しており、かつ、電磁弁一個に残された銘板の切断痕が本件犯行に使用された二個の電磁弁のそれの特徴と符合している上、これらの電磁弁がいずれもコイルナンバーを消すような工作が施されていることから、前記伊藤組で発見押収された電磁弁二個と本件犯行に使用された電磁弁八個はいずれも同じ時期、同じ機会に購入され、銘板についても同じ機会に同じ工具を用いて切断されたものと認められること

(8) 昭和五九年八月一日以降、同種放火事件で本件犯行以外に右と同一型番の部品が使用されていないこと

検察官は、以上の八点を理由として挙げているので、以下、証拠関係を検討することにする。

第二証拠関係の検討

一  電磁弁・圧力調整器の販売先捜査

1  シーケーディ製の電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)及び圧力調整器(二〇〇一―四C)の販売先捜査の責任者であるR1は、要旨次のとおり証言している(第八四回)。

「第一回目の販売先捜査は、昭和五九年一〇月から同六〇年六月まで行い、昭和六二年六月一五日から同年八月一四日までは第二回目の捜査(再確認捜査)を実施し、私は第二回目の捜査に総括責任者として関与した。再確認捜査は、捜査員が販売先捜査の経過と結果について証言することになり、万全を期する意味で行った。

電磁弁は、昭和五八年八月一日から同五九年九月一九日の間に全国で販売されたもの、圧力調整器は、昭和五八年九月一日から同五九年九月一九日までの間に関東地区で販売されたものを捜査対象とした。捜査方法としては、シーケーディ株式会社の出荷明細で直接の販売先を割り出し、そこを調べて、さらにその先を割り出し、電話又は訪問により順次捜査を行うというものである。

捜査対象期間を右のように限定したのは、本件時限式火炎放射装置に使用された八個の電磁弁のうち五個のコイルナンバーが判明し、そのうちの四個が昭和五八年八月以降に製造されたものであったこと、圧力調整器に関してはこの種類の製品が市場にも出回ったのが昭和五八年九月以降ということが判明したので、同年九月一日を捜査対象期間の始期とした。また、圧力調整器について捜査の対象を関東地区に限定したのは、電磁弁と圧力調整器は同一人が同一日に購入したであろうという観点から、電磁弁につき全国的な捜査をすれば、それでカバーできるのではないかと判断したためである。

既に証言済みの警察官三〇名の証言メモ(再証言で訂正された分については、訂正後の内容を基にしたもの)、未証言者九名の証言予定メモに基づき、単品で販売されたもののうち、最終的に販売先が判明しなかったものについて、「電磁弁単品出荷先不明分一覧表(出張取付先不明、組込出荷先不明は除く)」、「圧力調整器単品出荷先不明分一覧表(出張取付先不明、組込出荷先不明は除く)」を作成したが、その結果、販売先不明の電磁弁の総数は八七個、圧力調整器は一七個であった。また、前同様の方法により、本件犯行日である昭和五九年九月一九日時点における、電磁弁及び圧力調整器の所在が判明したものは、電磁弁の総数が九三七九個(機械組込み・八六五三個、保管中・六六二個、単品輸出・一六個、廃棄・四八個)、圧力調整器の総数が二九二三個(機械組込み・二三四五個、保管中・五五八個、単品輸出・一四個、廃棄・六個)であった。

未証言警察官九名の捜査した分に関して、電磁弁につき単品で一回の取引が七個以上、圧力調整器につき単品で一回の取引が四個以上のものについて電話で再確認捜査をしたが、原捜査者のメモ記載の捜査結果と異なるものはなかった。

なお、はっきりした数は分からないが、一年間における電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)の全国販売数は、八〇〇〇ないし九〇〇〇個、圧力調整器(二〇〇一―四C)は、一万五〇〇〇ないし二万個ではないかと思う」

2  R1の証言する電磁弁及び圧力調整器の販売先の捜査を行ったR2ら三〇名の警察官の証言によると、シーケーディ製の電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)のうち昭和五八年八月一日から同五九年九月一九日までの間に全国で販売されたもの、圧力調整器(二〇〇一―四C)のうち昭和五八年九月一日から同五九年九月一九日までの間に関東地区で販売されたものについての販売先について捜査したが、各警察官担当の分については、各自作成の「電磁弁の販売先捜査の経過と結果」及び「圧力調整器の販売先捜査の経過と結果」というメモの記載(ただし、一部訂正すべき点があるものもあるが、それは証言で補充)のとおりであり、販売状況についてはほぼ解明できたと思われる、というのであるが、渡邉邦夫の証言に見られるように、「上様」名義で店頭で現金販売された電磁弁及び圧力調整器については、全く販売先を特定できなかったものがある。

3  一方、野田浩二の証言(第一二四回)によると、本件裁判の弁護団事務局において、警察官の行った電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)及び圧力調整器(二〇〇一―四C)の販売先捜査の結果が正確か否かを調査し、販売先不明品等を明らかにしたものとして、「電磁弁・圧力調整器の販売先不明等に関する調査報告書」を作成したことが認められる。そして、野田浩二証言及び同人の尋問調書末尾添付の「電磁弁・圧力調整器の販売先不明等に関する調査報告書(一)(二)」によると、右の調査の方法及び結果は、次のとおりである。

(一)  調査の方法は、弁護団事務局員及びその補助者が、警察官の捜査メモ(証言メモ)記載の事業所の回答者に電話し、それとの連絡が付かないときには当該部品の入出荷や使用状況等について精通していると思われる事業所の責任者に連絡を取り事情を聴取するというものであった。

(二)  調査の結果は、次のとおりである。

「電磁弁・圧力調整器の販売先不明等に関する調査報告書(一)」(これは、R1証言にある未証言警察官九名分の捜査メモに関するもの)中、「A―1」は、未証言警察官九名分の捜査メモに記載の事業所五九三件のうち、R1が証言した電磁弁七個以上の一括販売先事業所五六件を除いたもの、「A―2」はその五六件を、「B―1」は、同じく未証言警察官九名分の捜査メモに記載の事業所三三七件のうち、R1証言にかかる圧力調整器四個以上の一括販売先事業所五二件を除いたもの、「B―2」はその五二件を、それぞれ調査した結果をまとめたものである。「不明品」には、単品出荷、組込出荷の態様を問わず、当該部品がどこに出荷され、どこで使用(保管)されているかが不明なものすべてを含めることにした。

電磁弁「A―1」につき調査した結果、捜査メモと相違する事業所件数は三六件で、R1の証言する単品出荷先不明品一四個、捜査メモにおいて組込後出荷先不明及び取付先不明品一六一個に、新たに判明した不明品一三個を加えると、不明品は合計一八八個になる。電磁弁「A―2」については、相違する事業所一三件、捜査メモでの不明品六五個に、新たに判明した不明品一〇個を加えると、不明品は合計七五個になる。

R1は、未証言警察官の捜査メモにおける単品出荷先不明分を二九個としているが、今回の調査では、合計四八個の不明品の存在が明らかとなった。

圧力調整器「B―1」については、捜査メモとの相違件数一一事業所、捜査メモでの不明品一三個に、新たに判明した不明品一個を加えると、不明品は合計一四個になる。圧力調整器「B―2」については、捜査メモとの相違件数八事業所、捜査メモでの不明品一一個に、新たに判明した不明品一〇個を加えると、不明品は合計二一個になる。

「電磁弁・圧力調整器の販売先不明等に関する調査報告書(二)」(これは、R1証言にある既に証言した警察官三〇名の捜査メモに関するもの)については、調査対象事業所は、電磁弁につき一七八一、圧力調整器につき七〇五の事業所であり、この報告書においては、「不明品」として、先に挙げたもののほか、新たに型番の不明なものを加えた。

電磁弁について、捜査メモと相違した件数は、一五九事業所で、捜査メモにより既に判明していた不明品三三四三個に、今回判明した不明品一一九個を加えると、不明品総数は三四六二個となる。

単品出荷先不明品に限っても、今回の調査により新たに二七個の不明品が判明した。

圧力調整器について、捜査メモと相違した件数は、四六事業所で、捜査メモにより既に判明していた不明品二八八個に、今回判明した不明品二五個を加えると、不明品総数は三一三個となる。

単品出荷先不明品に限っても、今回の調査により新たに一〇個の不明品が判明した。

4  以上のように、警察官による電磁弁・圧力調整器の販売先捜査と弁護人側の調査の結果については、相当大きな食違いがある。

S1の証言(第三八回)によると、シーケーディ株式会社では、昭和五五年から同社グループでの製品の販売状況をコンピュータで管理し、シーケーディグループからそれ以外の外部の客に販売された製品のデータについては小牧市にある同社のホストコンピュータに記録されており、警察官が販売先捜査の基にした電磁弁の出荷明細(符一四は昭和五八年九月から同五九年九月一八日までのもの、符一五は同五八年八月分のもの)は、昭和五八年八月一日から同五九年九月一八日までの間に全国で電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)を出荷した内容をホストコンピュータにより作成したもの、圧力調整器の出荷明細(符一六)は、昭和五八年九月から同五九年九月一九日までの間に、シーケーディ東京支店、東部販売、東京販売において売り上げた圧力調整器(二〇〇一―四C)の明細をホストコンピュータにより作成したものであり、その記載には間違いはないと思われる。なお、前記S1証言によると、電磁弁の製品の製造年月日を示すロットナンバー(電磁弁の銘板に打ち込まれたシリアルナンバー)はコンピュータに記録されていない、というのである。

しかし、R1証言からも明らかなように、右期間内に販売された電磁弁及び圧力調整器の数量は相当多量に上るのであるから、これらの販売状況をすべて正確に把握すること自体極めて困難な作業といわなければならない。

警察官による捜査の方法は電話又は訪問であり、弁護人側の調査の方法は電話によってそれぞれ事情聴取したものであるが、捜査・調査の対象となった事業所の全部につき、電話の相手が部品の出荷先等について正確に知っている人物かどうか、伝票等の資料が残っていたかどうか、仮に残っていたとしても、これらの資料に基づき真摯に回答してくれたものかどうか等の点について、警察官及び弁護人側の多大の努力にもかかわらず、いま一つ明確ではない。ちなみに、弁護人側の調査に対しては、相当数の事業所から回答拒否(調査妨害・非協力)があったというのである。また、捜査・調査の時期、すなわち、警察官においては、第一回目の販売先捜査を昭和五九年一〇月から同六〇年六月まで行い、第二回目の捜査(再確認捜査)を昭和六二年六月一五日から同年八月一四日まで実施し、弁護人側においては、調査報告書(二)に関して昭和六二年一一月ころから同六三年七月ころ、調査報告書(一)に関して平成元年七月ころから同二年一一月ころに行っており、販売先の捜査・調査対象期間からかなりの期間が経過しているのである。このことも、販売先の捜査・調査の結果の正確性に限界を感じさせるものといえよう。

そして、警察官による捜査、弁護人側の調査の結果について前記のように相当大きな相違がある上、弁護人側の調査結果については前記証人野田浩二に対する検察官の反対尋問(その際に示されたファクシミリを含む。)に照らして、正確性に疑問のある点も少なくないこと等を考慮すると、本件においては、いずれが、いかなる範囲において、正確に電磁弁・圧力調整器の販売先を解明しているかは確定できないというべきであり、また、検察官自身これらの単品出荷先不明品の存在を認めている本件においては、検察官の主張との関係において、これ以上確定する必要はないというべきである。

不明品の内容についても、警察官による捜査では単品出荷先不明品に限り、弁護人側の調査では単品出荷先不明品のほか、組込後出荷先不明品、「使用中・保管中」とあるも実際は不明なもの、エンドユーザーで捜査対象の物が別型番と判明したもの等を不明品としていて、両者に相違があるが、R1の証言するように、捜査対象を電磁弁及び圧力調整器の単品出荷先不明分に限定し、機械組込出荷、機械組込使用、機械組込保管、機械組込輸出、出張取付けなど機械に組み込まれたものについての不明分を除いた点については、機械に組み込まれた電磁弁、圧力調整器が機械のどの部分に使用されているのか外観上一般人には分からず、また、機械を窃取してこれから電磁弁等を取り外して本件の火炎放射装置の部品として使用するというのは、これらが市販されていること及び火炎放射装置の部品として使用するのに必要な個数等に照らしても、絶対ないとはいえないものの、およそ考え難いことであるから、一応合理的な判断ということができる。そこでこれを前提にして以下検察官の主張を検討することにする。ただ、この単品出荷先不明分に限定しても、前記のように警察官による捜査の結果よりも弁護人側の調査による方がはるかに不明品の数量が多いのであるから、警察官による捜査の結果判明した不明品の数は、「最低限これだけの数がある」との理解の下に、検討を進める必要がある。

そして、R1の証言によると、電磁弁単品出荷先不明分は全国で合計八七個であり、そのうち、上様名で店頭現金販売されたものは三八個ある。圧力調整器の単品出荷先不明品は関東地区で合計一七個あり、そのうち、上様名で店頭現金販売されたものは三個ある、というのである。

先に認定したように、被告人が昭和五九年八月一日シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所で電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)一〇個を購入したことは明らかな事実として、この事実に加えて、他の関係証拠上、検察官主張の事実は果たして認定できるであろうか。以下、検討する。

二  販売先捜査のその他の問題点等

1  警察官は、電磁弁一〇個と圧力調整器五個は昭和五八年八月一日の同一日に同一人物が購入したことを前提にして、電磁弁の販売先捜査を全国的に実施すれば、圧力調整器についてもカバーできると判断し、後者については関東地区に限定しているが、先に述べたとおり、電磁弁と圧力調整器を同一人物が購入したとの立証はできていないのであるから、この前提は成り立たず、しかも、圧力調整器は全国的に販売されている製品であるから、その販売先捜査はもともと不十分といわなければならない。ちなみに、S2の証言(第三八回)によると、圧力調整器の標準型「二〇〇一」は本件の「四C」を含め、「二C」、「三C」、「六C」の四機種で合計一か月に約六〇〇〇ないし七〇〇〇個製造されているというのであり、単純計算しても、本件の圧力調整器(二〇〇一―四C)は一か月に約一五〇〇ないし一七五〇個製造されて全国で販売されていることになるから、本件圧力調整器の販売先捜査が不十分であることは疑う余地がない。

検察官も、電磁弁一〇個と圧力調整器五個は同一日に同一人物が購入したことを前提にして、Nが販売した圧力調整器以外に本件火炎放射装置に使用された圧力調整器に符合する圧力調整器の不審購入者はいない旨主張しているが、右前提が証拠上認定できないのであるから、この点に関する検察官の主張は採用できず、したがって、以下においては電磁弁関係について検討すれば足りる。

2  本件遺留電磁弁のうち判読できた五個の電磁弁のコイルナンバーを基に、遺留電磁弁が昭和五八年八月一日以降製造出荷された蓋然性が高いとして電磁弁の販売先を捜査したことに合理性があるであろうか。

S3の証言(第三六回)によると、本件火炎放射装置に使用された電磁弁八個につき、製品の銘板の右下に打刻された製造年月日を示すシリアルナンバーは銘板が切断されていたため判明しないが、そのうち五個につき、電磁弁の部品であるコイルのコイルナンバーが「四六〇四、三八三〇、三八〇五、三八〇八、三八二四」と判明し、四桁目は西暦年号の末尾、三桁目は月、二桁及び一桁目は日を表すということから、これらは昭和五九年六月四日、同五八年八月三〇日、同年八月五日、同年八月八日、同年八月二四日に製造されたコイルを使用した電磁弁であることが認められる。

そして、S4(第三七回)は、「シーケーディ株式会社では、電磁弁の生産につき、いわゆるかんばん方式を採用し、売れ筋の数量の基準数を定め、その分を在庫として置き、出庫する度にその不足分を生産指示して補充するシステムにしていた。昭和五八年、同五九年当時、電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)の基準在庫は一〇〇個、部品として使用されるコイルの基準在庫は一〇〇ないし二〇〇個であった。部品の使用については、先入れ先出しの方式(古いものから順番に使用すること)を原則としていたが、厳密に守られていたか明確でない。工場の場合は、在庫の管理は先入れ先出しが原則であり、「右奥下入れ・左上手前取り」の表示をしていた。

綾瀬の量管理センターの電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)の基準在庫は約一か月分である。量管理センターについても製品の先入れ先出しが原則であるが、出入りの頻度の激しい物についてはこの原則が守られないケースもある。本件の電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)は搬入の頻度が高く、量管理センターの倉庫に置いてあるのは数日ないし二〇日で一か月以上にはならないが、例外もある。各販売会社の営業所の製品在庫の管理は、基本的には古い物から順番に販売するように指示しているが、管理の目が行き届かず、古い在庫もある。電磁弁の製品に付されるシリアルナンバーと部品のコイルのコイルナンバーの日付は近接しているはずであり、半月以内と思う」旨証言している。

コイルナンバーは電磁弁の部品であるコイルの製造年月日を表す番号であるから、電磁弁の製造年月日はこれと同じか後になるはずであり、右のコイルナンバーからすると、電磁弁の製造年月日は昭和五八年八月のものから昭和五九年六月のものまでばらつきがあることになる。しかも、本件に使用された電磁弁八個のうち、残り三個についてはシリアルナンバー及びコイルナンバーは不明であるから、残り三個について製造年月日がばらつく可能性があり、販売先捜査の対象期間の始期である昭和五八年八月一日以前に製造された電磁弁であるかも知れず、したがって、右の始期に合理性があるか疑問なしとしない。

3  検察官は、部品販売先捜査の立証につき、遺留電磁弁八個が一括購入されたことを前提にし、それを正当化する一つの根拠として、密行性を重視する中核派革命軍が部品調達に当たってばら買いすることは考え難いことを挙げている。しかし、弁護人指摘のとおり、一見の客を装った上で、一括して大量の部品を購入した方がかえって怪しまれるともいえるし、本件火炎放射装置では、電磁弁八個、圧力調整器四個しか使用されていないのに、昭和五九年八月一日には、電磁弁一〇個と圧力調整器五個が購入されており、これは一括購入という点でも必要以上の部品を購入していることになり不自然と思われる。

4  検察官は、在庫管理等を業務とするシーケーディ東京販売株式会社量管理センターから本件と同一型番の電磁弁が蒲田営業所に入荷した状況、同営業所から他に出荷した状況及び同出荷にかかる電磁弁のコイルナンバーの追跡結果、並びに同営業所に入荷したのとほぼ同時期に量管理センターから販売店等に出荷した電磁弁のコイルナンバーの追跡結果を総合すれば、判明した本件遺留電磁弁のコイルナンバーに合致する電磁弁の流通状況は、論告要旨添付の「電磁弁コイルナンバーヒット一覧表」のとおりであるとして、これに基づき推論を重ね、本件遺留電磁弁のコイルナンバーの組合せ等からみて、同電磁弁が被告人の購入した電磁弁の一部であると認められると主張する。もっとも、検察官の主張は、その結論部分において、「小島なる人物すなわち被告人に販売された一〇個の電磁弁の中に、一括購入されたにしては一見離れ過ぎているように見える三八〇五、三八〇八、三八二四、三八三〇と、四六〇四及びその前後のコイルナンバーのものとが混在しているのは、合理性のあることとして肯認できるといわなければならない」としているところからすると、本件遺留電磁弁のコイルナンバーの組合せ自体からして、同電磁弁が被告人の購入した電磁弁の一部であると認められるとまで主張するのではないようにも考えられるが、以下、検察官の主張の問題点につき検討する。

(一)  S1の証言(第三八回)によると、前記のとおり、シーケーディグループからそれ以外の外部の客に販売された電磁弁の製品のデータについては小牧のホストコンピュータに記録されるが、電磁弁の製造年月日を表すシリアルナンバーや部品であるコイルの製造年月日を示すコイルナンバーはコンピュータに入力されないというのであり、本件においても、出荷明細からもこれらのナンバーは判明しないから、検察官の主張自体一つの可能性をいうものに過ぎない。

(二)  本件においては、前記のとおり、三個の電磁弁のコイルナンバーは不明であり、判読された五個についても、推測される電磁弁の製造年月日が昭和五八年八月ころから同五九年六月ころまでと幅があるものであるから、電磁弁の販売先捜査の対象期間の始期を昭和五八年八月一日に限定したこと自体に合理性があるか疑問がある。

(三)  検察官は、蒲田営業所が昭和五八年八月一日から同五九年九月一九日までの捜査対象期間中、本件と同一型番の電磁弁の大半を入荷した昭和五八年八月から同年一〇月までの各入荷時期とほぼ同時期に量管理センターから蒲田営業所以外の販売先等に出荷された電磁弁の中から、本件遺留電磁弁と同一のコイルナンバーの「三八〇八、三八三〇」のものの存在が確認されているとして、このことから、昭和五八年八月から同年一〇月にかけて蒲田営業所が量管理センターから入荷した電磁弁の中には、「三八〇八、三八三〇」ないしはその前後、あるいはその中間のコイルナンバーを付したものが多く含まれていたものと推認できる旨主張するが、「電磁弁コイルナンバーヒット一覧表」中の「蒲田(営)以外出荷ヒット分」を見ても分かるとおり、そのヒット率は高くはなく、コイルナンバーの不明なものが相当数存在するから、検察官の推論は合理性を欠く。同様の理由から、昭和五九年六月一二日に蒲田営業所が量管理センターから入荷した電磁弁は「四六〇四」及びそれに近接したコイルナンバーのものである蓋然性が極めて高いと推論する点も根拠薄弱といわなければならない。

(四)  また、検察官は、蒲田営業所出荷分の中、昭和五八年九月八日、同月一六日、同五九年一月三〇日の出荷先から、「三八〇五、三八〇八」のコイルナンバーの電磁弁が確認されているが、この事実は、昭和五八年八月から同年一〇月にかけて蒲田営業所が量管理センターから入荷した電磁弁の中には、「三八〇八、三八三〇」ないしはその前後、あるいはその中間のコイルナンバーを付したものが含まれていたとの推認を別の角度から裏付けるものと主張しているが、前記のとおり、その含まれる割合が高いとまではいえないし、そもそも、蒲田営業所では遺留電磁弁のコイルナンバーである「三八二四」「三八三〇」は一切確認されていないのである。

(五)  検察官は、昭和五九年六月一一日時点における蒲田営業所の電磁弁の在庫九個については、基本的には、前記のように「三八〇八、三八三〇」、その前後、中間のコイルナンバーのものが多く含まれていると推認される昭和五八年八月から同年一〇月にかけて入荷したものの大半がそのまま在庫として持ち越されていたものと推認され、これに「四六〇四」及びそれに近接したコイルナンバーのものである蓋然性が極めて高い昭和五九年六月一二日の四個の入荷が加わって在庫一三個となり、そこから同年七月三〇日に二個出荷され、さらに最終的に在庫が一一個となった時点で、同年八月一日の「小島」すなわち被告人への販売に至ったものと推認できると主張しているが、その推論の前提に疑問のあることは先に指摘したとおりであって、にわかに採用し難い。

(六)  S4の証言(第三七回)によると、本件電磁弁は一か月に約七〇〇ないし八〇〇個製造されているが、「電磁弁コイルナンバーヒット一覧表」によると、蒲田営業所以外の営業所等のコイルナンバーを追跡したのは、昭和五八年八月二四日から同五九年六月一四日までの間に、三〇個余りに過ぎない。検察官の主張が成立するためには、蒲田営業所に出荷されたのと同時期に、量管理センターから出荷されたすべて(ないしは大部分)の電磁弁のコイルナンバーが高い確率でヒットすることが立証されなければならないが、そのような部品の販売先捜査はされていない。

(七)  ちなみに、S5の証言(第四六回)によると、同人が昭和六〇年五月四日シーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所において本件と同一型番の電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)の在庫について捜査したところ、在庫六個のコイルナンバーは、「四三〇一」が二個、「四三〇五」、「四三一二」、「四五〇九」、「四六一四」が各一個であったことが認められるのであって、いずれもコイルナンバーがほぼ近接しているのである。

以上の点にかんがみると、検察官が一括購入されたと主張する本件遺留電磁弁のコイルナンバーが離れ過ぎばらついているのは不自然というほかなく、コイルナンバーの組合せ等から昭和五九年八月一日の一括購入が何ら裏付けられないといわなければならない。

三  その他の証拠の検討

1  O1(警視庁科学捜査研究所文書鑑定科主事)の証言(第八七回)及び同人作成の昭和六三年一〇月六日付、同年一一月一〇日付各鑑定書(甲二〇二、甲二〇四)によると、昭和六三年九月一〇日に新潟県の前記伊藤組倉庫内で発見押収された電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)二個のコイルナンバーを判読したところ、その結果は次のとおりであったことが認められる。

右電磁弁につき、消去文字部を水等で洗浄した後、実体顕微鏡により拡大検査したところ、一個の消去文字は、その残存字画線より「四六〇四」と判読された。他の一個は、残存字画線より「四六〇□」と判読され、さらに同型の電磁弁用コイル(ナンバーは「四六〇一」ないし「四六〇九」)を同倍率で写真撮影し重合検査を行った結果、各数字の印字の際にその印字位置に極端な変動を生じないものであるならば、□内の数字は「一」であるものと推測された。

これは昭和五九年六月製造のコイル、特に「四六〇四」については、本件自民党本部放火事件の火炎放射装置に使用された電磁弁の一つ(コイルナンバーが「四六〇四」のもの)と同じ同年六月四日製造のコイルを使用した電磁弁であることが認められる。しかし、前記S4の証言(第三七回)によると、昭和五八年、同五九年当時は、本件電磁弁の月間製造数は約七〇〇ないし八〇〇個(日産約二三ないし二七個)というのであり、そもそも、右の日産約二三ないし二七個というのも、計算上の数に過ぎず、実際の同一ナンバーのコイルの数量を示すものではない。ある日には他の日より多く生産されているかも知れないし、コイルが生産される電磁弁と同一の数量しか存在しないのかということも明確でなく、同一製造年月日のコイルが同一製造年月日の電磁弁よりも数量が多いことも考えられなくはない。したがって、電磁弁のコイルナンバーの同一又は近接したものがあったとしても、このことから前記伊藤組倉庫内で発見押収された電磁弁二個が本件自民党本部放火事件の火炎放射装置に使用された電磁弁と同一の機会に一括購入されたものと推認できない。

2  O2(警視庁科学捜査研究所物理科主事)の証言(第八七回)及び同人作成の鑑定書(〈証拠〉)(以下、両者を併せて「O2鑑定」という。)は、要旨次のように述べている。

「自民党本部放火事件の火炎車A車両から領置された電磁弁の銘板の切残し部分四個(資料1)、同火炎車B車両から領置された電磁弁の銘板の切残し部分三個(資料2)及び前記新潟県の伊藤組倉庫から発見押収された電磁弁の銘板の切残し部分二個(資料3)につき、その切断痕が符合する否かを実体顕微鏡及び比較顕微鏡を用いて検査したところ、資料3の銘板のうち一個と資料1、2のそれぞれの一個の切断面の非塗装面側の粗い条線の特徴痕が符合するものが認められた。条線の特徴痕が符合するということは、同一の工具で切断した可能性が極めて高いことを意味する」

しかし、O2鑑定には、次のような問題点があるといわなければならない。

(一)  鑑定資料九個の銘板のうち、一個(丸形)を除いて外周部分はすべて八角形であり、したがって切断面は六四面あるのに、三つの面だけで判断し、残りの面については何ら検討していない。この点につき、O2は、実体顕微鏡で見た範囲では一致した部分を発見することができなかったので、それ以上の検査をしていない、すなわち、パタンがはっきり認識できなかったため、比較対照検査をせず、結果的に比較対照検査をしたのは三つの面だけである旨証言している。

(二)  資料の切断面に印象された条痕は、粗い部分(非塗装面側)と細かい部分(塗装面側)に分かれているが、本件鑑定に当たっては、塗装面側は非常に細かい条線で比較が非常に困難であるとして、比較対照検査を行っていない。O2は、塗装面側の残っている条線に同じ条痕が現れる可能性が極めて高いと証言しているのであるから、本来正確を期するためには塗装面側についても比較対照検査を実施して条痕の符合が確認されなければならない。

(三)  資料3のうちコイルナンバーが「四六〇四」の電磁弁については、本件遺留電磁弁の一個とコイルナンバーは同一であるが、切断された銘板の形状が丸形であり、両面に切削されたような顕著な痕跡が多数印象されていて、他の資料と明確な違いを有することから、これが他の資料となった電磁弁と一括購入され同一の工作が施されたことの証拠とはなり得ない。コイルナンバーが「四六〇一」と推定された電磁弁についても、これと切断痕の符合が認められるのはいずれもコイルナンバーが判読不明の電磁弁であり、これがいつ製造され、販売されたものか不明であるから、切断痕が一致していたとしても、これらの電磁弁が一括購入されたものであるとの検察官の主張を裏付けるものではない。

(四)  切断痕の特徴からしても、これが同一の工具によって加工されたものであるとか、同一機会に加工されたものであるとかの証明になり得ないことも明らかである。すなわち、

O2は、「本件においては金切り鋏を使用して銘板を切断したものと思う。鋏の三角形をしている刃先の先端の背中から少しいったところの条線が切断面に転写されるが、異なる鋏であれば、その仕上げが違ってくるので、切断面に転写され条線は異なってくるといってよい。すなわち、鋏は砥石(グラインダー)で仕上げをするが、グラインダーで磨いた時、個々のグラインダーに付いている筋が鋏の刃部に転写される。一つの鋏を仕上げ、次いでもう一つの鋏を仕上げる時にグラインダーの硬い粒が落ちたりグラインダー自体が減ったりすることがあるので、異なる鋏であれば、同じ条痕が転写される可能性は非常に少ないと思われる。しかし、その可能性が零かというと断定ができないので、「ほぼ同一の工具で切断された」と鑑定した」旨証言している。しかし、その零でない可能性の程度については答えていないし、同一の工具で切断された可能性の確率についても数字で表していない。

そもそも、本件においては、切断した工具も特定されていないし、それを仕上げたグラインダーの種類、強度、硬度等も明らかにされていない。グラインダーによる仕上げの方法、例えば、機械により自動的に行われたか又は手動により行われたかによっても工具の刃部に現れる条痕は異なる可能性がある。

また、同一工具だとして刃部にある条痕の変わらない間に切断すれば同じ特徴の条痕が現れるが、刃部の条痕が変われば切断面に同じ特徴の条痕が現れないというのであるから、工具の刃部の強度により同一の条痕の維持される時間の長い物であれば、同一機会に切断したものではなくても、同一の特徴痕が現れる可能性があることになる。現に、O2自身も、同一の機会に切断されたかは分からない旨証言している。

(五)  さらに、仮に、同一の工具で切断されたとしても、特徴痕の一致した電磁弁が同一の機会に一括購入されたことにはならない。これらが各別に購入された上一括して切断されたかも知れないし、本件自民党本部放火事件後に前記伊藤組倉庫から発見押収された電磁弁が購入され、工具の刃部の条痕の変化しないうちに切断されたのかも知れないのである。

加えて、切断面の特徴痕の符合したものは、資料1、2の七個の電磁弁のうちの二個と資料3の二個の電磁弁のうちの一個であって、残りの六個については不明であって、これらが同一の工具により、また同一の機会に切断されたか不明であるから、同一の機会に一括購入されたとは到底推認することはできない。

第三結論

一 以上検討した結果によると、本件においては、検察官主張の論拠のうち、本件犯行に使用された電磁弁及び圧力調整器と前記伊藤組倉庫で発見押収された電磁弁及び圧力調整器がいずれもシーケーディ製にかかるものであること、中核派は火炎放射ゲリラ事件において、電磁弁二個、圧力調整器一個を一セットとして使用し、昭和五九年八月一日の部品購入時、本件犯行時及び前記伊藤組での発見押収時の両者の比率がいずれも二対一であること、昭和五九年八月一日以降、同種放火事件で本件犯行以外に右と同一型番の部品が使用されていないことのみが残ることになるが、これらが検察官主張を支持するものとして十分でないことはいうまでもない。すなわち、

検察官は、後記のQ3の証言(第一〇〇回)及び同人の証人尋問調書添付の「新フォワード説明書」を根拠にして、中核派革命軍によるこれまでの火炎放射事件の火炎放射装置には、基本的には本件遺留電磁弁及び圧力調整器と同じ型番のシーケーディ製の電磁弁二個と圧力調整器一個を一セットとして使用する方針が存在していたと主張するが、後にいわゆる革命軍立証のところで説明するように、中核派革命軍による火炎放射事件においてシーケーディ製以外の電磁弁及び圧力調整器が使用された例もあるし、また、昭和六一年三月四日から五日にかけていわゆる松本アジトから押収された右「新フォワード説明書」の作成者及び作成時期も不明であることなどに照らすと、電磁弁及び圧力調整器の組合せ比率が一致していることをもって、前記伊藤組からの押収物が「一括購入」の残りであるとすることはできない。

また、最後の論拠についても、検察官のいう中核派武器庫である前記伊藤組倉庫からシーケーディ製の電磁弁及び圧力調整器が発見押収されたのが、本件自民党本部放火事件より約四年経過した昭和六三年九月一〇日であることに照らすと、昭和五九年八月一日以降、同種放火事件で本件犯行以外に右と同一型番の部品が使用されていないとしても、他にこれらの電磁弁等が隠匿されていないとの確証はなく、結局この点も検察官の主張を支持するに足りないというほかない。

二 そして、先に述べたように、R1の証言(電磁弁単品出荷先不明分一覧表を含む。)によると、昭和五八年八月から同五九年九月一九日までの間に、本件電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)が「上様」名だけでも三八個が全国で店頭現金販売されており、これを東京地区に限っても、千代田区外神田所在の鳥居電業(株)本社で八個、(株)鳥居パーツで一三個、中央無線電機(株)中央エレマートで一個、鈴木電興(株)秋葉原営業所で九個が店頭現金販売されているのであり、これらが不審購入者でないとの立証はされていないのである。被告人の一度の電磁弁の購入量が一〇個と多いとか、被告人が電磁弁を購入し物品受領書に署名する際に、「協和電機の小島」と名乗って自己の氏名や筆跡を隠そうとしたことも、それだけでは検察官の主張を裏付けるものとしては不十分である。

三 以上要するに、被告人の購入した電磁弁一〇個のうち八個が本件時限式火炎放射装置に使用されたとの検察官の主張は、合理的な疑いを容れない程度まで証明されていないと結論づけざるを得ない。

九 いわゆる革命軍立証について

第一検察官は、被告人の犯意及び共謀の存在を推認できるものとして、(1)被告人は、中核派革命軍の脈管であって、革命軍の組織編成・構成員の動静等を知り得る枢要な地位にあったこと、(2)中核派による一連の闘争の経緯及び被告人の本件犯行における役割をみると、被告人は、革命軍脈管としての立場から、同派革命軍による自民党本部に対する火炎放射ゲリラの敢行につき、事前に犯行計画の全貌を知った上で犯行に加担したものと認められること、(3)アジトにおける被告人の所持品等からみても、被告人は本件犯行を含め中核派の闘争に深い係わりを有しており、逮捕当時には、次期作戦を遂行するための重要な任務に就いていたと認められること、を指摘し、その根拠として、いわゆる革命軍立証として申請した警察官の各証言(そこで示された資料、証拠物等に関する説明を含む。)等を挙げる。

本件においては、被告人は、犯行への関与を完全に否定しているので、革命軍立証は間接事実(情況証拠)による推認の立証形態をとることになる。情況証拠は、種々の条件が付加され、多義的解釈を許す余地が多いだけに、被告人と犯行を結びつける方向の情況証拠の判断に関しては、その確度と限界について正確な分析と緻密な検証が必要である。まず、個々の情況証拠の確度と限界を慎重に吟味し、次いで他の情況証拠との相互補完の関係の有無・程度を考慮しつつ、総合的な証拠判断をすること、すなわち分析と総合が必要である。以下、この見地から、本件における立証の経過に従って証拠関係に検討を加える。

第二Fの証言(第八七回、第八八回)及び同人作成の昭和六〇年五月三日付検証調書(甲二三四)によると、次の事実が認められる。

Fは、被告人が逮捕された翌日の昭和六〇年四月二九日、東京都国分寺市〈住所略〉「むつみ荘」二〇五号室の被告人方を検証したのであるが、検証の結果、被告人方の台所には水が八分目くらい入ったポリバケツがあり、トイレの北東側の窓の中央に鉄パイプが一本止められ、六畳間の南西側の窓はネットを取り付けるような状況になっていた。六畳間のスチールロッカーの中には黄色のロープで縁取りされたネットが入れてあり、そのスチールロッカーの扉にはテグスの先に小さいサイコロを付けたものが磁石で取り付けられ、六畳間の柱と壁の間は下から天井までガムテープで隙間を塞いであった。また、長田順行の「暗号の作成と解読」という書物もあった。検証の立会人であった「むつみ荘」の管理人の中島保昌は、前記の鉄パイプは賃借人の甲(被告人のこと)が取り付けたものであり、ガムテープは前の賃借人の時には無かったと説明していた。

Fは、「私は、中核派の機関誌「共産主義者」の中で「ミリ」、「却」ということが書かれているのを読んだことがある。中核派の刊行物に「中核派の防衛原則」ということが記載されている。水の入ったポリバケツは水溶紙を溶かし証拠隠滅を図るための「却」といわれるもの、鉄パイプは侵入防止用のもの、スチールロッカーの扉にテグスの先に小さいサイコロを付けたものが磁石で取り付けられているのは、「ミリ」といわれるもので、スチールロッカーが開閉されたかどうかを確認するためのもの、ネットは、警察が捜索等で入るときの時間稼ぎないし敵対セクトの侵入防止用と思われる」旨証言している。

さらに、中島保昌の証言(第七四回)、甲の証言(第七二回)、被告人の供述(第七六回、第七八回)、賃貸借入居申込書(〈証拠〉)、貸室賃貸借契約書(〈証拠〉)等によると、被告人は、昭和五九年九月一七日付で国分商店不動産中島保昌の仲介により前記むつみ荘二〇五号室を同月二三日より二年間賃借する契約をし、同月二四日ころから入居したが、その名義は甲という他人の名義を用いていたこと、被告人がそれまで居住していた神奈川県小田原市所在の○○ビル三〇二号においても被告人は高田豊という他人の名義を用いていたこと、いずれの住居においても、被告人は当時結婚して子供がいたにもかかわらず、家族と離れて単身で居住していたことが認められるところ、このような事実をも併せ考慮すると、むつみ荘で発見した特異な状況についての前記Fの判断は合理的であるというべきであって、中核派に属する被告人がむつみ荘をいわゆるアジトとして居住していたことはこれを認めるに難くない。

第三W1の証言(第九二回)及びW2の証言(第九四回)によると、次の事実が明らかである。

一  昭和六〇年四月二八日、前記むつみ荘二〇五号室の捜索差押の結果、無線受信機等在中の段ボール箱、ベル様のもの、機関紙「前進」一二〇五号(一九八四年一〇月八日付)、機関誌「共産主義者」(一九八五年春季号)、新聞紙のコピー三枚(九月二〇日付朝日新聞、同月二一日付内外タイムス、いずれも本件自民党本部放火事件を報道したもの)、紙片等、メモ用紙、書面、通帳類、印鑑類、自動車の鍵等が発見押収された。

前記機関紙「前進」一二〇五号(一九八四年一〇月八日付)には、「九・一九自民党本部強奪戦に大勝利」などの見出しの下に、中核派革命軍が本件放火を敢行した旨の記事が掲載されていた。

前記段ボール箱内の無線受信機は、日本コミュニケーション株式会社製造の超短波帯VHF・FM周波数変調受信機(一四〇メガ帯から一六〇メガ帯の無線通信を傍受可能)で、傍受実験の結果、警視庁一方面系の警察通信を傍受できるもの一台、同じく福山電機製造の超短波帯VHF・FM周波数変調受信機(一四四メガ帯から一五〇メガ帯の無線通信を傍受可能)で、傍受実験の結果、警視庁四方面系の警察通信を傍受できるもの一台、製造会社は判明しなかったが、一四四メガ帯から一五〇メガ帯の無線通信を傍受可能で、傍受実験の結果、警視庁四方面系の警察通信を傍受できる無線受信機一台であった。

また、福山電機製の無線受信機に取り付けられる水晶振動子四五個が押収され、その水晶振動子四五個のうち四三個については、その頭の部分又は側面の部分に固有の周波数が刻印されていて、一四六メガ帯から一四八メガ帯のものであり、捜査の結果、水晶振動子の周波数が警視庁又は関東近県で使用されている警察通信の周波数に合致した。

その外、無線受信機に使用できるイヤホン、イヤホン接続コード、バッテリー及びバッテリーホールダー、アダプター、接続コード、アンテナ取付金具、コネクタ、「全国周波数表(VHF・FM)」と題する書面、群馬、栃木、茨城の各警察無線の周波数をメモしたものも押収されている。

二  そして、W2は、無線受信機等の使途に関して、「過去の中核派のアジトから、警察無線を傍受できる無線機器、さらに水晶振動子の押収はなかった。警察無線を傍受できる水晶振動子が多数押収されているので、関東近県の警察活動の情報を入手するため、これらの無線機器と水晶振動子を所持していたものと思われる。本件事件発生直後、警視庁の共通一系、方面系の警察通信に対し妨害があり、警察通信が不能の状態になっているということがあったが、事前に、警視庁で運用されている共通一系、方面系等の周波数をこれらの受信機で把握することができると思う。さらに、警察無線を傍受するということは、犯行グループが犯行現場へ行く経路、現場付近での警察活動の状況等の情報を入手できるし、犯行直後においては、警察の緊急配備態勢その他の情報を入手でき、犯行後、検問場所等が判明するので、その場所を避けて安全な方法で逃走することができるという利点がある」旨証言している。

三  しかし、これらの機関紙誌類、新聞、無線機器類、「全国周波数表(VHF・FM)」と題する書面はいずれも、市販され、一般人も購入できるものである。したがって、前記のような機関紙誌類、本件を報道した新聞のコピー、無線機器類が被告人の居住していたむつみ荘にあったということは、被告人が本件に関心を持っていたこと、むつみ荘がアジトになっていたことを窺わせるが、それ以上に、被告人がこれらの無線機器類を使用していたこと、本件に関与していたことを推認させるものではない。

第四R1の証言(第九二回)によると、次の事実が認められる。

R1は、昭和六〇年四月二八日午後六時三五分、東京都国分寺市東元町三丁目三〇番六号むつみ荘先路上において、被告人を本件に関して通常逮捕し、その逮捕の現場で、被告人の身体及び所持品につき捜索差押を実施した。その結果、次の物が押収された。

被告人の着衣から、紙片(「ウィロー」等の記載のある水溶紙様のもの)、領収証類の発行者欄等を破ったもの、被告人の掛けていたショルダーバッグ内から、帽子、手袋、マスク、レストラン・喫茶店等の電話番号が載った紙片二〇枚在中のビニールケース、小物入れ等が押収された。右小物入れの中には、現金の外、「裏面の文字印刷の件依頼、自動車検査証」等と記載のある紙片と「676様、前略KRよりARIの仕事のため「チョコレート」が必要になりました」等の記載のある紙片(この二点は、右肩に「676」、左に「KR」と記載のある封筒の中に在中)、「様ARI(Nz、ヘルツ担当)」と記載のある紙片と「5/10(金)AM11.00」と記載のある紙片(この二点は、右肩に「様」、左下に「ARI(Nz)」と記載のある封筒の中に在中)があった。

第五Q1の証言(第九八回、第九九回)について

一  Q1は、被告人の逮捕の際押収された水溶紙及び被告人の居住していたむつみ荘二〇五号室内で押収された水溶紙の暗号文を解読した者であるが、同人の証言の要旨は次のとおりである。

「速記文字の変形を用いた花文字による暗号文の解読、ローマ字を用いた暗号文の解読、月日、週、曜日、時間等に関する暗号文の解読、喫茶店の電話番号に関する暗号文の解読等を行った。

速記文字の変形を用いた花文字による暗号文の解読については、地図等の記載から速記文字の変形を用いた暗号メモ、それと暗号化前の通常文字を用いたメモ等を相互に照合して、五十音転換の法則、数字を解読した。この法則は、これに従って変形文字で書かれた暗号文を解読した結果、人名、喫茶店の名前の実在することが確認されているので、正確である。

ローマ字を用いた暗号文の解読については、ローマ字で書かれた暗号文のうち「カモメ」、「五郎」の外、地図の書かれている暗号メモが東北本線の久喜駅周辺の地図と判明し、さらに、ローマ字で書かれた暗号文で「カモメ」、「一郎」、「二郎」、「三郎」、「四郎」と地図の記載のあるものが京浜東北線の南浦和駅、東武野田線の豊春駅周辺の地図と判明したので、これらを基本にして解読を行った結果、ローマ字を解読するキーワードは「STONE」であった。ローマ字の最初と最後の文字は捨文字、以下残りの文字を三文字目ごとに消去していき、子音はそのままにして母音のみを転換する(Sをa、Tをi、Oをu、Nをe、Eをo)というものであった。このとおり解読して、喫茶店、駅の実在することを確認しているので、この解読法則は正確である。

月日、週、曜日に関する暗号文の解読については、行動表、行動予定表の中に、カレンダーの祝日、日曜日の記載等から、昭和六〇年四月二六日から同年五月三一日までの間の行動表があることが判明し、これらを検討資料として分析し、日曜から土曜までがローマ字の「SUNTORY」で暗号化され、また、一期が一六週単位になっており、ローマ字で「YOU NIGHT SCRAMBLE」で表されていた。これらの曜日、週の暗号を組み合せると、第何週の何曜日ということが判明する。

接触メモ(ドッキングメモ)の時間表示の暗号の解読については、時間表示と思われる接触メモの暗号文を検討すると、一日が二四時間表示になっており、二四時間を「EICP」で四分割し、分表示については、「F」と「T」で二分割され、「F」は「FLAT」の頭文字で〇分、「T」は「THIRTY」の頭文字で三〇分を表すと認められた。さらに、外の資料を検討したところ、ローマ字の暗号解読結果と変形文字の暗号解読結果から、同じ内容を持つドッキングメモが発見され、それを突き合せたところ、「C」は一二時を、「P」は一八時を、「F」は〇分を表示し、他の資料を分析した結果、「E」は〇時と判明し、一日は二四時間四分割法なので、残りの「I」は六時と判明した。

甲六〇(〈証拠〉)の紙片に記載された「チョコレート」は、偽造車検証の意味であり、その理由は、同紙片の中には、「ARIの仕事のために「チョコレート」が必要になりました。原稿は別紙のとうりです」という内容が書いてあり、この別紙が車検証(〈証拠〉)の偽造の原稿であって、これが一緒に封筒(〈証拠〉)の中に入れられていたこと、昭和六二年に中核派革命軍の山縣俊雄から押収した「チョコ・シェフ」報告という水溶紙のメモに「チョコ」と称して車検証の偽造方法が詳細に述べられていることからである。

機関紙「前進」の受領に関する暗号文の解読に関しては、行動表、行動予定表に「カモメ」「」と書いてあるものがあったが、機関紙「前進」は毎週月曜日が発行日であり、この行動予定表に「カモメ」「」が発行日に対応して定期的かつ継続的に記載されていたこと、昭和六一年長野県松本市の中核派のアジトから押収された「文書管理レポート」、「Ch−o Report」という表題の水溶紙メモに「カモメ」、同じく「特技とコネクション」という表題の水溶紙メモに「カモメの定購」(定期購読の意味)の語句が見つけられたことから、「カモメ」「」は「前進」と認められる。すなわち、「文書管理レポート」は、各活動家が文書つまり機関紙、メモ等をどのように保管しているかを上部に宛てて報告している内容であったが、このメモに「カモメ」の保管についての記載があり(「F」の記載もあり、これも「前進」を表すものであるが、「F」と書いてあるところには「カモメ」の記載はなかった。)、また、「Ch−o Report」は、ある特定の人物の経歴等を調査した結果を記載したメモであるが、その中に「カモメ・A」として、著作に影響があるので「赤旗」を併せて「カモメ・A」を一切読まないと言って拒否した旨の記載があり、次に「特技とコネクション」は、特定の個人の特技等について報告したものであるが、「カンパ」「「カモメ」の定購」とあり、カンパし又は「カモメ」の定期購読をしている旨の記載と思われた。

機関紙「前進」の受領の月日、時間も、「CENTRALU」をキーワードとして暗号化されていた。「カモメ」の暗号文の中に、喫茶店の電話番号に関する暗号もあり、「5」「4」という数字がキー数字として使われていた。「カモメ」と記載のある暗号文の解読の結果、「前進」の受領については、一期一六週の第一二週が火曜日、第一三週(五月六日)が月曜日、第一四週(五月一四日)が火曜日、第一五週(五月二〇日)が月曜日、第一六週(五月二八日)が火曜日に、それぞれ午前一一時から一一時三〇分の間に定期的に受領されることになっていた。さらに、行動表、行動予定表等から、奇数週には「」は月曜日に、偶数週には「」は火曜日に付いていて、「前進」の受領は、奇数週は月曜日に、偶数週は火曜日に定期的に行われていたことが認められる。

甲八八(〈証拠〉)の「富士山」、「桜島」、「阿蘇山」、「三原山」とあるのは、ローマ字又は英語で表記してその頭文字を取り、「富士山」は機関紙「前進」、「桜島」は中核派の機関紙「週刊三里塚」、「阿蘇山」は機関紙「武装」、「三原山」は機関誌「共産主義者」と認められる。この暗号文の中に「A」「B」「C」「D」「E」とあるのは、各班を表し、A班の中に見られる「KR」「Nk」「YM」「Nz」「Fs」「Hk」「Ak」「Hd」は、「KR」を班長とするA班のコードネームであり、他も同様であると思われる。「富士山」、「桜島」、「阿蘇山」、「三原山」の下に個人別に数字が書かれているのは、機関紙の購読数である。ただし、数字の十の位はカムフラージュで一の位が実数である。

各種の暗号文を解読した結果、被告人の暗号名は「Nz」である。それは、被告人方から押収した資料の中の行動表、行動予定表に「行動表(Nz)」と記載のある行動表があったこと、その記載等からして、被告人の行動と行動予定表の中の行動予定が一致していること、接触メモ、ドッキングメモの中の接触の当事者の記載には「Nz」の記載が多数あること、被告人が逮捕された際所持していた水溶紙の封筒に「ARI(Nz)」、RI(Nz、ヘルツ担当)」と記載されていたことを総合して判断した結果である。

押収された紙片の中には、被告人が機関紙「前進」を受領したり、同じグループの者とドッキングしたりする組織活動に従事するための行動表及び行動予定表、接触するためのドッキングメモが多数あった。

符一三六の紙片は、五月七日に、「AZ」(D班のキャップ)と「Nz」(被告人のこと)が「チョコ」を渡す、すなわち偽造車検証の授受を内容とする接触メモである。

符一〇七の紙片は、革命軍のアジトの名義人の一覧表と認められる。この暗号文の解読の結果を基にしてアジトの捜索を実施したところ、アジトであることが確認されたものがあると聞いている。

符一一二の紙片は、会計報告表と判明した。その形式(項目に分け、金額を記載)や、これ以後中核派革命軍のアジトを摘発して押収した会計報告表もこれと同じような形式を取っていること、革命軍のメンバーは組織から活動資金を得て行動しているので上部に報告する義務があるように窺えることから、会計報告表と認めた。そして、家賃の欄に二万三〇〇〇円と記載されているが、被告人の居住していたむつみ荘二〇五号室の契約書によると、家賃は二万二〇〇〇円、管理費が一〇〇〇円で合計が二万三〇〇〇円となり、上記の金額に合致するので、この会計報告表は被告人のものと認められる。

また、符一一四は出納表、符一二四は水溶紙の注文メモと認められる。

「ARI」については、中核派革命軍の一つの組織名と思われる。その理由は、前記の「チョコレート」の依頼文書の中に、「ARI」の仕事のことで「チョコレート」すなわち偽造車検証が必要になった旨の記載があり、偽造ナンバーはゲリラに使われるが、ゲリラを敢行するのは「ARI」の仕事であるというところから、中核派革命軍の組織名と認めた。そして、「ARI(Nz)」との記載は、「ARI」に属する「Nz」つまり被告人と考えられる。

符九三の紙片の中に「HACHI」とあるのは、中核派革命軍の組織名であり、「ARI」とは異なった組織である。それぞれが具体的にどのような任務を持っているかについては分からない」

二  Q1証言の証明力

Q1は、各暗号文の解読の根拠を具体的に挙げ、解読結果に基づいて捜査し実在の確認された喫茶店等があり、また暗号文間に相互に対応する記載があることの指摘もあって、その解読結果については証明力があるといわなければならない。

しかし、その証明力の程度については、次の点を考慮しなければならない。

1  弁護人の指摘のとおり、暗号文の中には、解読不能のものが少なくない。例えば、「FB」「さ」と書いて両方を囲ったもの、「Y6」と書いて四角く囲ったもの、「N」と書いて丸で囲ったもの、「ふ=さ」とあって全体を括弧で囲ったもの、「タ」、「M6」と書いてそれぞれ四角く囲ったもの、「C6」、「BNZ」(これについては、会議又は接触と理解しているとも証言している。)、「M5」、「C5」、「Y2」(〈証拠〉)、「M3」と書いて四角く囲ったもの、「サ」と書いて括弧でくくったもの、「FC5経由」「う=さ」と書いて全体を丸で囲ったもの(甲八七、符一一五関係)、「ザブ」、「マカオ」、「UCC」、「バナナ」、「ルル」、「センター作り」、「1」ないし「5」という欄の数字(〈証拠〉)、「56」と書いて丸で囲ってあるものが誰か、「AS」と書いて四角く囲ったもの、「BANA」、「Sony」(〈証拠〉)、「マダム」、「サザエ」、星印があって、「MH」とあるもの、「Fj」、「新コロンブスダンス」、「carp」、星印に「SnSk」、「ヨット」、「手」と書いて両方を囲ってあるもの、「A5」として四角でくくってあるもの、「G2F」(〈証拠〉)、「B」から「E」の中でその符合が具体的に誰を指すかということ(甲八八、符五七関係)、「ホンコン」(〈証拠〉)については、解読できていない。

2  昭和六〇年四月、五月のカレンダーの祝日、振替休日、日曜日の配置から見て、前記の行動表、行動予定表は昭和六〇年四月二六日から五月三一日までの間のものと判断しているのは、一応合理性は認められるが、これらが本件自民党本部放火事件のあった昭和五九年九月一九日から約七か月経過した時期に押収されていることに注意する必要がある。すなわち、Q1証人自身、暗号は時期によって変化するので、昭和五九年と同六〇年では異なり、キーワードも変わることがあると認めているからである。また、暗号がグループによって異なるかも分からないというのである。後に触れるように、Q3の証言(第一〇〇回)によると、中核派革命軍は本件後の昭和六〇年一月一一日に科学警察研究所に火炎放射装置を使用したゲリラ事件を敢行しているというのであるから、本件後被告人の逮捕された昭和六〇年四月二八日までにグループ編成、グループ名、暗号が変更されたことも考えられなくはない。

3  符一〇九及び一一五の各紙片に、「FB」が継続的に記載されているが、これが金曜日に記載されているところが三箇所あり、月曜日に発行される「前進」の受領が金曜日まで遅れるのは不自然であるところから、これが「前進」の受渡しを意味しない旨証言している。その説明は一応合理的であると思われるが、それ以外の「FB」は水曜日ごとに記載されており、被告人が供述するように、「前進」を指す可能性がないとはいえない。

Q1は、「行動予定表に記載のある「Fj」も「前進」を意味しない。符一〇八の紙片の第六週の「N」のところに、上段に「MH」に丸を付け、その下に「Fj」」に丸印が付いたもの、同じく第六週の「R」に「Fj」、第七週の「Y」に「Fj」、第八週の「T」に「IDKR」として、「ん」と書いて、「Fj」、「Fs」、同じく「R」に「MH・Fj」、第九週の「U」に「Fjダンスの件」の各記載があるところからしても、「Fj」は「FB」に一致せず、それはコード名である」と証言している。この説明も一応理由があるように思われるが、弁護人が指摘するように、符一四九の紙片に、「Fj」と書いて「」、「Fj」と書いて「ロ」とあり、地番、場所の記載があるところから、「前進」の受渡場所を記載したものではないか、特に、「Fj」の「ロ」が五月一日(昭和六〇年五月一日を指す。)の一一時を意味するとすると、その指摘を容れる余地なしとしない。

符五七の「三原山」につき、「COMMUNIST」ではなく、「MARXISM」の頭文字からして機関誌「共産主義者」としているが、そのように解読すると各班の中では「共産主義者」を購読していない者が出ることにもなり、この解読が正しいか疑問がある。

4  Q1証言は、被告人が中核派革命軍の「ARI」に属すると指摘している。石川巌作成の筆跡鑑定書は、符五四の紙片(様と書出しのもの)が被告人の筆跡であるとしているところ、右紙片には「ARI(Nz、ヘルツ担当)」の記載があるから、Q1証言が指摘するように、被告人が中核派革命軍の「ARI」に属していたと一応認めることができよう。しかし、そのように認めたからといって、前記のとおり、右紙片は被告人が逮捕された昭和六〇年四月二八日に所持していたものであり、その暗号が本件自民党本部放火事件後に変更された可能性がないわけではないから、本件当時中核派革命軍の組織の中に「ARI」が存在し被告人がそのグループに所属していたということにつながらない。また、「ARI」が革命軍の他の組織という「HACHI」とどのような役割分担をし任務を負っていたのか不明である。

以上の点を総合すると、Q1証言には自ずから限界があり、被告人が中核派革命軍に属していたことを窺わせるとしても、同証言から、被告人がいかなる役割を分担し、どのような任務を負っていたかは認めることができないといわなければならない。

第六Q3の証言(第一〇〇回)について

一  Q3は、過激派がゲリラ事件に使用している武器、その組成物の解明、構造分析等に通算約一六年従事してきた者であるが、中核派が敢行した火炎放射ゲリラ事件及び火炎放射装置の構造等につき、要旨次のとおり証言している。

「中核派が敢行した火炎放射ゲリラ事件は、これまでに全部で八件ある。昭和五五年五月一八日に千葉県の土屋石油ターミナル基地、同五六年三月一〇日に千葉の花見川パイプライン第七立坑、同年六月八日に運輸省、同五七年五月七日に自衛隊千葉地方連絡部、同五八年三月八日に京成電鉄高砂検車区、同五九年三月一日に日本橋ホンチョウビルにある新東京国際空港公団、同五九年九月一九日に本件自民党本部、同六〇年一月一一日に科学警察研究所に対して敢行したゲリラ事件である。

この一連のゲリラ事件に使用された火炎放射装置には、いずれもガスボンベ、圧力調整器、電磁弁が使われていた。前記土屋事件の場合には、プロパンガスが入ったボンベ一本、ガソリン等の燃料のボンベが一本、圧力調整器、電磁弁各一個が一組になってこれが二組使用されていたが、前記花見川パイプライン事件以降、基本的には、本件自民党本部事件と同じく、高圧ガスのボンベ一本、ガソリン等の燃料が入ったボンベが二本、圧力調整器一個、電磁弁二個が一組になって、基本セットを構成していた。火炎放射のメカニズムは、時限装置により、二個の電磁弁が開くと、高圧ガスが圧力調整器を経て圧力調整された上、ガソリン等の燃料が入った二本のボンベに流入し、その圧力でガソリン等の燃料がノズルから放出されるとともに、ノズルの先端に取り付けられた点火装置が時限装置によって点火され、噴出した燃料に着火して火炎放射状態になる、というものであった。

前記花見川パイプライン事件以降の火炎放射装置の基本設計といえる文書として、昭和六〇年一月九日から一一日にかけて三重県四日市市の四日市アジト(K9の居室)、同六一年三月四日から五日にかけて長野県松本市の松本アジト(K10の居室)から、同じ内容の「新フォワード説明書」と題する書面が発見、押収されている。この文書には、高圧ガスのボンベ一本、ガソリン等の燃料が入ったボンベが二本、圧力調整器一個、電磁弁二個が一組になって、この基本セット二組を使用した火炎放射装置の設計、製作方法が記載され、また、圧力調整器については、シーケーディの「二〇〇一―四C」、電磁弁については、シーケーディの「AB四一〇三五」を使用した旨の記載があった。

運輸省事件以降の事件では、花見川パイプライン事件を基にして、攻撃目標の状況に合せて一部手直ししてあるが、「新フォワード説明書」が基本設計であることが判明した。なお、花見川パイプライン事件で使用された圧力調整器二個、電磁弁四個は、燃えていたが、圧力調整器についてシーケーディの二〇〇一型まで判明している。運輸省事件で使用された圧力調整器二個は、シーケーディの二〇〇一―四C、電磁弁四個は、シーケーディのAB四一―〇三―五―AC一〇〇Vであり、自衛隊千葉地方連絡部事件では、圧力調整器及び電磁弁が燃えていてメーカー、型番は判明せず、京成電鉄高砂検車区事件で使用された圧力調整器二個は、シーケーディの二〇〇一―四C、電磁弁四個は、東京計器のルシファー電磁弁DC二四V、新東京国際空港公団事件に使用された圧力調整器二個は、シーケーディの二〇〇一―四C、電磁弁四個は、東京計器のルシファー電磁弁DC二四V、本件自民党本部事件で使用された圧力調整器四個は、シーケーディの二〇〇一―四C、電磁弁八個は、シーケーディのAB四一―〇三―五―AC一〇〇V、科学警察研究所事件で使用された圧力調整器二個は、焼結金属のAR三〇〇―〇三型、電磁弁四個は、東京計器のルシファー電磁弁(交流一〇〇ボルト)であった。

昭和六三年九月一〇日に新潟県〈住所略〉所在の株式会社伊藤組倉庫から発見、押収された押収品目録の番号五一の荷札に「F一二〇」と表示した段ボール箱の中の電磁弁八個、圧力調整器四個について、メーカー、型番を確認したところ、電磁弁二個は、シーケーディのAB四一―〇三―五―AC一〇〇V、圧力調整器一個は、シーケーディの二〇〇一―四Cで、いずれも本件自民党本部事件に使用されたものと同じであった。同じ段ボール箱の中の残りの電磁弁六個、圧力調整器三個については、科学警察研究所事件で使用されたものとメーカー、型番は同じであり、圧力調整器三個は、焼結金属のAR三〇〇―〇三、電磁弁六個は、東京計器のルシファー電磁弁(交流一〇〇ボルト)であった。

これまで約一六年にわたって過激派のゲリラ事件に使用された武器、その組成物の解明分析等に携わってきた職務上の経験からして、電磁弁及び圧力調整器が火炎放射装置以外に用いられたケースは一回もなかった。過激派にとって、電磁弁及び圧力調整器は火炎放射ゲリラのみに使用されるのであり、過激派が電磁弁、圧力調整器を購入するということは、火炎放射ゲリラに使用する意図で買っているとしか考えられない」

二  Q3証言の証明力

Q3証言の証明力を判断するに当たっては、次の点を考慮する必要がある。

1  Q3証言も認めるように、シーケーディの圧力調整器と東京計器の電磁弁を組み合せる場合は、電圧、交流、直流の問題はあるにせよ、電磁弁自体には特別手を加える必要はないから、中核派が火炎放射ゲリラ事件において常にシーケーディの電磁弁と圧力調整器をセットにして使用するとは限らない。京成電鉄高砂検車区事件、新東京国際空港公団事件で使用された圧力調整器、電磁弁は、それぞれ異なるメーカーの製品の組合せであったことからも明らかである。

2  Q3証人は、本件自民党本部事件、科学警察研究所事件に使用された電磁弁、圧力調整器について、前記伊藤組倉庫で発見、押収されたものとの同一性を証言しているが、その主たる根拠はメーカー、型番の同一性であって、これらの製造年月日については何ら捜査していない。

前記伊藤組倉庫で発見、押収された電磁弁二個について、それが被告人が昭和五九年八月一日に購入した電磁弁一〇個の残りと認めることのできないことは、既に部品の販売先捜査のところで述べたとおりである。

3  Q3証人は、電磁弁及び圧力調整器について、前記伊藤組倉庫以外で発見、押収されたものがあったかは、確認していない。中核派革命軍というものが、全国的な組織であるとすれば、他に、武器を保管したアジトがないとはいえない。現に、伊藤組倉庫が摘発されたのは、本件自民党本部事件からほぼ四年後であることも、この推測を裏付けるものといえよう。

4  電磁弁は、電磁石の力によって弁を開閉して気体又は液体の流れを調節する機能を持ち、ジュースの自動販売機、自動現像機等、広範囲に使用されているのであり、(S3の証言、第三六回)、本件の自民党本部事件に使用された電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)の月産は七〇〇ないし八〇〇個(昭和五八年、同五九年当時もほぼ同じ。)であること(S4の証言、第三七回)、圧力調整器は、エアコンプレッサーから出てくる空気の圧力を一定の圧力又は安全な圧力に下げる機能を持ち、工場のエア機器、塗装用エアガン、タイヤの空気圧を調整するときの調整弁等に幅広く使用されているものであり、標準型「二〇〇一」は、本件自民党本部事件に使用された圧力調整器「二〇〇一―四C」の外、「二C」、「三C」、「六C」の機種を合せて月産は六〇〇〇ないし七〇〇〇個であること(S2の証言、第三八回)、これらはいずれも市販されて一般人が容易に購入できるものであること等に照らすと、Q3証人が「過激派にとって、電磁弁、圧力調整器は火炎放射ゲリラのみに使用されるのであり、過激派が電磁弁、圧力調整器を購入するということは、火炎放射ゲリラに使用する意図で買っているとしか考えられない」旨証言しているのは、それが一つの見方を示すものとはいえ、未だ推測の域を出ず十分の根拠を示していないといわなければならない。

以上の点を考慮すると、Q3証言は、本件自民党本部事件が中核派革命軍によって敢行されたことを裏付けるものとはいえるが、それ以上に、昭和五九年八月一日電磁弁(AB四一―〇三―五―AC一〇〇V)一〇個を購入した被告人が、それが本件自民党本部事件の火炎放射装置に使用されることを認識していたことを推認させる証明力はないといわなければならない。

第七M3の証言(第一〇〇回)について

一  M3は、中核派革命軍の実態等について調査、分析をした警察官であるが、その捜査結果に基づき、要旨次のとおり証言している。

「中核派革命軍は、昭和四七年ころ結成されたものであるが、機関紙「前進」、機関誌「共産主義者」等によると、革命的内乱に向けてのゲリラ、パルチザン的武装闘争の担い手となること、反革命集団と決めつけている革マル派を武装的にせん滅することの二つを目的としている。革命軍の任務を具体的に言うと、対権力ゲリラの実行、対革マル戦の実行、これらの実行のための武器の研究、開発、製造、対象とする人物や建物の調査、研究、資材の調達、つまり武器、資材、工具の窃取、購入等である。

革命軍内部の組織編成等については、武器の研究、開発、製造等を担当する部門、これに伴う資材調達部門、攻撃対象等の調査部門、対権力ゲリラや対革マル戦の実行の部門、これらの任務を支える脈管が存在する。

革命軍の脈管の任務は、組織上部から軍に対する指示、命令等の伝達、軍から組織上部に対する報告、連絡、文書等の受渡し、革命軍内部の各部門に対する指示等の伝達、連絡、革命軍組織員相互の接触時における警察からの検挙の防止、革マル派の襲撃を防ぐために不審者の発見、見張りをする等して、支援、防衛すること、軍の活動家に対する機関誌の配布等を担当することである。

脈管については、昭和五三年九月号の機関誌「共産主義者」に、脈管の建設、強化として掲載されたのが最初で、その後、現在まで、随所の号に掲載されている。昭和六〇年一月号の機関誌「共産主義者」に、九・一九への一大反動としての革命軍、傍線を二本引いた上、脈管の逮捕、絶滅、攻撃をはねのけ、防衛に大勝利することという記事が掲載されていた。また、平成元年五月五日に逮捕した革命軍K1からの押収資料等に、脈管の具体的任務として、クロックという暗号を使用して、革命軍組織相互の接触時における支援、防衛、ゲリラ用の武器、資材の受渡し、防衛ということが書かれていた。機関誌「共産主義者」によると、脈管の役割は、中枢と革命軍の絶対的防衛を果たすことにあると認められるので、脈管組織は、革命軍の中でも極めて重要な組織と考えられる。

革命軍の各部門の存在は、中核派革命軍等のアジトから押収した証拠資料や、事件捜査の過程で明らかになった事実等から判明している。武器の研究、開発、製造等を担当する部門の存在に関しては、昭和六三年三月一一日に逮捕した革命軍K7、昭和六一年一〇月一二日に逮捕した革命軍K8の捜査結果から、ゲリラ用の武器、資材調達、運搬部門については、昭和六一年三月四日から五日にかけて長野県松本市で摘発した革命軍K10の居住アジト(松本アジト)からの押収資料により、攻撃対象等の調査部門については、昭和五八年一〇月二一日千葉県松戸市内の中核派の松戸アジト、及び革命軍K8が圧力鍋爆弾を製造していた岩手県柴波郡都南村所在の岩手アジトから押収した資料等から、対権力ゲリラの実行の部門については、前記岩手アジトから押収の資料から、それぞれ判明している。

革命軍の規模、人員については、関東で約一二〇名と把握している。それは、今までの捜査結果から、逮捕歴等の活動のあった者で、公然活動から姿を見せなくなり、住所地に居住していない、実家にも全く立ち寄らない、家族の葬儀にも出ない等の動向が見られ、しかも組織から脱落していないと認められる者の人数割出し等から、その程度と判断されるからである。

革命軍の構成員に関しては、機関紙誌の記載等からすると、強固な革命的共産主義者であって、理論武装ができていること、完全黙秘、非転向の獄中闘争が貫徹できること、家族問題の革命的解決ができること、一芸に秀でていて、高度な専門的な知識又は技術を有していること、反革命勢力に対しては無慈悲な制裁を加えることのできる強さを持った人物ということで、中核派の中でもえりすぐりの者が選ばれているといえる。

機関紙「前進」を含む機関紙の配布については、警察に中核派の活動家、シンパの顔や氏名、アジト、勤務先等から把握され組織の崩壊につながることのないように、配布ルートや方法等を秘匿して極秘に配布するという非公然配布が行われていたが、昭和五九年当時、機関誌「共産主義者」に「前進」の配布網の非公然的確立に全力を挙げていかなければならないと記載されていたこと、昭和六三年に至っても、「前進」に機関紙の非公然配布が全党挙げた緊急の課題として強調されていた状況からして、昭和五九年当時、機関紙の非公然配布はほとんど実現していなかったと思われる。」

二  M3証言の証明力

M3証言の証明力を判断するに当たっては、次の点を考慮しなければならない。

1  M3証人は、機関紙誌類の調査、分析から中核派革命軍の組織ついて証言しているのであるが、その組織につき不明な部分が多い。すなわち、革命軍の規模について、関東では約一二〇名としながら、全国で何名いるか分からない、中核派のゲリラ活動が関西で行われたことがあり、関西にも革命軍の組織があると思われるが、その人員や関東と関西の関係は分からないし、関東の構成員が関西に移動することがあるかは分からない、中核派の非公然組織が即革命軍ということになるのか不明であり、むしろ、機関紙の分析等からすると、革命軍以外にも非公然部門があるように思われ、前記の約一二〇名の中には非公然ではあるが、革命軍でない者も含まれているかも知れない、革命軍の組織について、各部門の構成員が何人いるか分からないし、脈管の人数についても不明である、というのである。

2  M3証人は、機関紙誌類には、革命軍は革共同中央あるいは中央軍事委員会の指導を受けると記載されているから、中核派革命軍で上部というのは革共同中央あるいは中央軍事委員会を指すとしているが、一つのゲリラ事件を計画する場合、この上部組織が計画、作戦を立てるのか不明であるし、革命軍の構成員が相互に他の構成員の任務を知っているかについても分からない、と証言している。

3  「前進」の非公然配布についても、機関紙誌の記載からの判断であり、昭和五九年当時「前進」がどのように配布されていたかを知らないのであって、「前進」の配布の実態を踏まえた意見ではないし、また、本件の約二年前に発行された「前進」一〇九一号(一九八二年六月二八日付)の中の「読者の防衛の重大性について」等の記事や、最近の「前進」に警察の「前進」の配布網に対する摘発、弾圧が強まっている等の記事が掲載されていることからして、昭和五七年当時から機関紙の非公然配布活動が行われていたことを窺わせるのである。

以上の点を考慮すると、M3証言には自ずから限界があり、革命軍の存在、脈管を含めて各部門の存在、その役割、革命軍構成員の資格については、これを認め得るとしても、それ以上の事実を認めるに足りる証明力を持つものではないといわなければならない。

第八Q2の証言(第一〇二回、第一〇三回、第一〇五回)について

一  Q2は、中核派革命軍の組織編成、活動実態等について調査分析し、被告人逮捕の際の押収物及び被告人の居住していたむつみ荘二〇五号室、関連アジトから押収の証拠物等を分析解明した者であるが、その結果から、被告人は革命軍の脈管であると証言している。同人の証言の要旨は、次のとおりである。

「革命軍の脈管の任務は、上部から軍に対する指示、命令の伝達、軍に対する各班相互間の連絡、軍から上部に対する報告、連絡文書の運搬、家族接触の支援、軍に属する活動家に対する機関紙の配布、車両の管理、運転である。これら以外にも、随時指示を受けて任務に従事することがある。脈管が武器を運搬したり、武器製造の資材を購入、運搬したりすることは、これまでの例に見られる。脈管が火炎放射ゲリラ事件の準備段階で時限式発火組成物等を購入することはあり得ることである。

脈管の人員構成は、最近において判明している限りでは、一個班四、五名で活動している。

革命軍における脈管体制の発足時期は、昭和六一年三月一四日革命軍K11から押収した「バンカー・ラフとの闘いについて」の文書の記載からして、昭和五〇年代の初めである。

中核派が敢行した各種事件捜査の結果、革命軍アジトからの押収品、革命軍構成員の逮捕時の押収品の分析結果からすると、中核派革命軍の構成員と認定される特徴点としては、アジトを設定する時には偽名を使用、防衛原則の貫徹、暗号化された水溶紙メモ、会計表、同表作成のための金銭出納表、不審車両チェックメモの所持である。また、革命軍の脈管と認定される特徴点としては、ドッキングメモ、非公然車両の管理、運転、ドッキングに使用するための喫茶店等の基礎的調査資料、発行者欄を破った領収証の所持が挙げられる。

被告人は、これら革命軍及び脈管の各特徴点をいずれも充たしており、さらに、革命軍構成員アジト名義人一覧表、偽造車検証依頼文書、革命軍構成員の機関紙誌購読数一覧表、「前進」受領の暗号文、「SK班」から「KR」に宛てた緊急事態を報告する「パナマの件」と題する文書、「KR班」の水溶紙注文メモ、アジト名義人候補の暗号文の所持も、被告人が脈管であることを示すものである。

具体的にいうと、次のとおりである。被告人がむつみ荘二〇五号室にアジトを設定した時には、中核派のシンパである甲の名義を、それ以前のアジトである小田原市所在の○○ビルに居住していた時には高田豊(現在指名手配中の革命軍K12の元同僚)の名義を使用していた。

被告人は昭和五四年五月一五日葛飾区内において交通事故を起こしているが、この時運転していた車両は、「足立五七・す六九―九二」という非公然車両であり、昭和五六年五月から八月にかけて、被告人は、「多摩五七・つ七二―七二」という非公然車両を運転していた事実がある。革命軍、特に車両の運転を担当する脈管は、警察車両の発見に努めており、不審車両を厳しくチェックし、不審車両を発見した時には車種、ナンバー等を報告するようにとの指示が出されているが、被告人も同様に通行車両をチェックしそのナンバーをメモして保管していた事実がある。

防衛原則の貫徹というのは、警察や対立セクトの動きに対抗するため、「ミリ」つまりアジトの侵入者の有無を発見するための工作をすること、「キリ」つまり尾行を切ること、「腹」つまり重要書類を腹に巻くこと、「鉄」つまりアジトの出入口を補強すること、「却」つまり水溶紙を水につけたり、焼却、裁断却等をして処理することをいうが、被告人のアジトであるむつみ荘二〇五号室には、侵入防止用にトイレに鉄パイプが取り付けられ、水溶紙の「却」用に水を張ったポリバケツが置かれており、部屋の窓に合うネットが用意され、室内のロッカーの内側には、「ミリ変」つまり侵入防止用の措置としてサイコロが取り付けられていた。

被告人は逮捕された時、発行者を破った領収証を所持していて、革命軍の一員として「却」を実行していたものと認められる。

革命軍は、対権力ゲリラの準備段階や実行等の際に偽造ナンバープレートの外に偽造車検証を使用するが、被告人は、逮捕された時、「チョコレート作成依頼文書」を所持していた。この文書には「原稿は別紙のとうり」と記載され、偽造車検証の原稿と一緒に封筒に入れられていたこと、昭和六二年一月二一日に検挙したK13から押収の「チョコ・シェフ報告」というメモには、「チョコ」と称し車検証の偽造方法が詳細に述べられていたことから、「チョコレート」は偽造車検証を意味することが分かる。

被告人の居室や逮捕時に押収した証拠物の中に、発進者欄を「ARI(Nz)」と記載した水溶紙の封筒、「ARI(Nz、ヘルツ担当)」と記載したメモ、予定と結果を記載した「Nz」行動表があったことから、被告人は、「ARI」という革命軍組織中で、「Nz」として行動していることが分かる。

被告人が逮捕時に所持していた「チョコレート作成依頼文書」で偽造しようとした車検証のナンバーは足立ナンバーであり、本件自民党本部放火事件で使用された三台の車両の偽造ナンバーも同じ足立ナンバーである。この外、いずれも都内で発生した昭和五八年三月八日京成高砂検車区に対する火炎放射事件、同六〇年一一月二九日の浅草橋駅襲撃事件、同六二年八月二七日のロケット弾発射事件においても、偽造の足立ナンバーが使用されている。

被告人が昭和六〇年四月二八日に逮捕された時「チョコレート作成依頼文書」を所持していたこと、行動表には、五月七日欄に午後二時に東大和市内において「チョコ渡し」のために「AZ」と被告人である「Nz」が接触する予定が記載されていたこと等から、被告人は、この文書の内容を十分知っており、次期作戦を知らされた上で最終的には偽造車検証の授受をする任務を帯びていたものと思われる。また、革命軍の構成員には次期作戦が知らされるものと考えられる。

被告人が暗号化された水溶紙メモを多数所持していたことは、被告人が革命軍の構成員であることを示すものである。被告人の所持していた暗号のメモは、ローマ字暗号や速記文字の変形を使用していたが、被告人のメモから判明した所沢アジトに居住していたK14もこの暗号を使用しており、二年後にK13から押収したメモにも同様に用いられており、このことから被告人は革命軍内で統一的に使用されていた暗号を承知して使用していたものと思われる。

また、被告人から押収したメモ類の中の会計報告が前記町田アジトやK13等から押収した会計表と同一形式をなしており、被告人が革命軍内で定められた様式に従って会計報告していたことが裏付けられる。

被告人の所持していた暗号化された水溶紙メモを解読した結果、日野、立川、所沢、田無、市原といった革命軍アジトが判明したが、所沢アジト関連の押収メモの中に、「一九八五年新年アピール」と題するメモがあり、革共同革命軍が「AL」「AH」という暗号で表されており、同様の暗号は立川アジトから押収のメモにも用いられていた。

被告人が革命軍メンバーの名義人一覧表を所持していたことは、被告人が革命軍内でも重要な任務を帯びたポストにあったことを示すと思われる。また、被告人が機関紙「前進」を定期的に受領するための「カモメ」の接触予定メモを所持し、革命軍内五個班三一名の機関紙誌購読数一覧表を所持していたことから、脈管の任務である物の受渡しをしていたものと認められる。「カモメ」が機関紙「前進」を表す暗号であることは、「特技とコネクション」「Ch―o Report」からも明らかである「パナマの件」と題する緊急事態の発生を示す文書、ドッキングメモ、ドッキングに使用するための喫茶店等の基礎的調査資料を多数所持していたこと等も、被告人が脈管であることを示すものである。

昭和五五年から現在まで中核派革命軍が全国で敢行した火炎放射事件は八件に上っているが、その火炎放射装置に常に電磁弁と圧力調整器が使用されていた。機関紙の報道によれば、中核派革命軍の構成員にとって、火炎放射が常に権力中枢を狙う強力な武器であることを認識できるはずであった。

本件自民党本部放火事件では、火炎車両が二台、火炎放射装置が四本セット使用されているが、これは、南甫園駐車場の自民党本部側に水曜日の犯行時間帯に保冷車二台を止めるスペースが空いているかを事前に調査しなければ決定できないことからも、本件自民党本部放火事件においては入念な現地調査が行われたはずであり、また、どのような場所にどういう攻撃をするかは、革命軍幹部はもちろん現場調査担当者も知っていると思われる。

機関誌「共産主義者」によると、武器戦闘資材の入手、製造は命がけの戦闘活動で、限られた組織力で達成されなければならないとされているところからすると、少数精鋭の革命軍構成員であれば、重要な部品の機能、数量から、それがどのような武器に使用するものであるかを当然認識していたはずである。特に、電磁弁、圧力調整器は火炎放射装置のみに使用され、本件では個数も多く購入されていたので、購入担当者は、権力中枢に対する大規模なゲリラ計画を知らされていたと思われる。それを窺わせるものとして、昭和六一年一〇月一二日岩手アジトで押収された手紙がある。爆弾製造アジトである岩手アジトに爆弾製造部門と行動を共にしていた革命軍構成員K15宛に組織の者が出した手紙であるが、その中には、K15に対し、「あなたの力によってできた、スキーセット、アイスクリームが大活躍した、結果は御存知のとおり、万歳」等と書かれていた。昭和六一年九月当時中核派は東京、千葉、神奈川、埼玉、茨城で時限式可燃物を使用したゲリラ事件を敢行しているが、K15は昭和六一年八月中旬ころ周囲の目をごまかすためのカムフラージュ用の夫婦としてアジトに居住していた者で時限式発火装置の製造技術があるとは思えないので、同人の役割は部品や材料の購入を担当していたものと考えられるところ、「結果は御存知のとおり」と書かれているから、K15は、自分の関与した行為がどのような事件に結びつくかを手紙で教えられるまでもなく、十分に認識していたと思われる。

本件自民党本部放火事件に関するメモが昭和六一年三月四日に摘発された松本アジトから押収されている。このメモには、九・一九弾圧つまり被告人の逮捕、起訴の際は部品の購入が問題になった、そこで新しい主要工作道具は窃取や中古品の再生によって入手したい、新品の購入は写真面割りのおそれが後々問題になる旨記載されていた上、一二月一五日から翌年一月にかけての旋盤の窃取計画が書かれていた。このメモ作成者は、昭和六〇年一二月一五日以前の段階で、被告人逮捕の際は部品の購入先が問題になったことを知っていたこと、被告人逮捕を教訓として、面割りを警戒し、新品の購入を避ける方針を打ち出したことから、メモ作成者は、被告人が本件部品購入者であることを知った上、店の従業員の面割りにより被告人が逮捕されたことを反省したものと考えられる。

本件自民党本部放火事件に使用されたものと同一のメーカー、型番の電磁弁、圧力調整器が昭和六三年九月一〇日新潟県下の株式会社伊藤組倉庫から押収されているが、本件の捜査結果と、コイルナンバーや銘板切断痕等の鑑定結果を考え合せると、この電磁弁及び圧力調整器は、自民党本部放火事件のために購入されたものの、事件では使用されずに残った物である蓋然性が高い。

被告人の居住していたむつみ荘二〇五号室から本件自民党本部放火事件を報道した商業新聞のコピー、「前進」が押収されているが、これまでの捜査経験上このような事例は無かったので、被告人が本件自民党本部放火事件に特別の関心を持っていたことを示すものといえる。

なお、「チョコレート作成依頼文書」の中に「BIRTHDAY」「バースデー」とあるのは、関係資料を検討すると、昭和六〇年四月一二日に発生した成田、羽田ロケット弾同時発射事件を指すと判明した。」

二  Q2証言の証明力

Q2証人は、自己の調査、分析等に基づくとしながら、中核派革命軍の組織編成、暗号文の解読等について随所に断定的な意見を述べているので、その結論に十分の根拠があるかどうかを慎重に検討しなければならない。Q2証言の証明力の判断に当たっては、次の点を考慮すべきであろう。

1  暗号文について、未解明のものが多い。

「カモメ」「」は機関紙「前進」と解釈し、それについては一応納得できる根拠を挙げているが、「FB」については解明できていない。行動表又は行動予定表に記載された「さ」、「ふ=さ」、「Y6」、「タ」を四角で囲ったもの、「M6」、「B6」、「LM」、「M5」、「C5」、「Y2」、「Fjダンス」の「ダンス」等も、同様に解明できていない。押収物の中に、「香港」、「マカオ」、「シカゴ」等が出てくるが、その意味は不明である。

2  革命軍の組織について、不明な点が多い。

機関紙によると、革命軍は中央軍事委員会の強力な指揮の下にあるとされているというのであるが、革命軍とその上部機関という中央軍事委員会及び中核派の政治局との関係が判明していない。革命軍の構成員に関して、中核派の構成員の中に革命軍でなくて非公然活動をしている者がいるかどうかは不明というのである。

また、革命軍、特に、車両の運転を担当する脈管は不審車両を厳しくチェックしていると証言しているが、中核派の構成員が前進社の建物から出て行く時、幌付きトラックの中で追尾車両の有無、不審車両のナンバーを控えている例を知っているとも証言し、不審車両のチェックが脈管固有の任務でないことを認めている。

3  脈管の役割に関して、脈管と認めた人物、例えば、本人がそのように認めているK16の外、K17、K18を脈管の例として挙げ、同人らが担当していた任務を基に証言するところが多いが、同人らを脈管と認めた根拠が必ずしも十分でない。K18を脈管としている点については、同人が車両を運転し、人を運び資材を搬入していたことからであるというのであるが、脈管でない者が同様の役割を果たすかどうかは知らないとも証言しており、これは脈管の任務を推認する根拠にはならない。

4  昭和六三年四月に脈管のK19(同人が脈管であるといえるのは、自分で「」と書いて自分の班編成を記載した資料を所持していたからであるという。)を検挙し、その資料から脈管は一個班四、五名で活動していることが判明した旨証言しているが、全体で何班あるのかは分からず、また、右資料の押収は本件自民党本部放火事件から三年半以上経過しており、それが本件当時の班編成を物語るといえるかも疑問である。

5  甲六〇(〈証拠〉)の紙片には、「「BIRTHDAY」において「HACHI」が」、冒頭の方に「ARI」の各記載があり、これらは革命軍の組織であり、「HACHI」は「BIRTHDAY」すなわち昭和六〇年四月一二日のゲリラ事件を起こした革命軍の組織、「ARI」は偽造車検証を必要とするゲリラの実行部隊である旨証言するが、それ以上のことは不明であり、他に革命軍の組織があるのかも分からない。町田アジトからの押収資料によると、昭和五七年当時、「BH」「BS」というグループが存在したことは判明していると証言するが、「HACHI」「ARI」との関係は不明である。

中核派革命軍は、昭和六〇年当時、関東では約一二〇名であるとしながら、関西にも存在すると思われる革命軍については調査できていないし、関東の革命軍の中で脈管が何人いるかも分かっていない。また、革命軍の人数の増減、組織名が固定的なものか、流動的なものかも不明である。

6  前記松本アジトは、それで逮捕されたK10が東大闘争で検挙された経歴があること、松本アジトが関東地方にあることから、関東の革命軍のアジトと推測している旨証言しているが、そこで押収された「特技とコネクション」「Ch―o Report」の記載からすると、関西方面の革命軍の活動に関連したアジトとも推測される旨も証言しているのであって、この点に関する証言は、明確ではない。

7  甲八八(〈証拠〉)の紙片に記載された「富士山」「桜島」「阿蘇山」「三原山」の中の「A」に出てくる「Nz」が被告人を指し、脈管であるとしている。しかし、「A」の中には、「Nz」を含めて八つのコード名があるのに、何故「Nz」だけを脈管と分析できるか、その根拠が不十分である。この点につき、Q2証人も脈管と断定できる資料はない旨証言している。

8  Q2証人は、「昭和六一年三月四日に松本アジトから押収されたメモ(第一〇二回公判のQ2証人尋問調書添付の資料10)の作成者が、昭和六〇年一二月一五日以前の段階で、被告人逮捕では部品の購入先が問題になったことを知り、被告人逮捕を教訓として、面割りのおそれを警戒し、部品調達に当たっては新品の購入を避ける方針を打ち出していることからすると、このメモ作成者は、被告人が本件の部品購入者であることを知っていたと考えられる」旨証言しているが、このメモの作成者が、店の従業員による面割りで被告人が逮捕されたことを知っていたことと、被告人が本件自民党本部放火事件の火炎放射装置の部品購入者であるということは、直ちに結びつくものではなく、論理の飛躍がある。すなわち、昭和六〇年四月の段階で、自民党本部放火事件に関して部品購入の面から犯人検挙の割出しを行っている旨、昭和六〇年四月二八日に被告人が逮捕された直後に、被告人逮捕については、部品の販売ルートから、店頭でのやりとり等が検挙につながった旨それぞれ報道した新聞記事が存在することが弁護人の反対尋問によって明らかになっているから、メモ作成者がこれらの新聞報道により知識を得ていたことも考えられるからである。

9  被告人の居住していたむつみ荘二〇五号室から本件自民党本部放火事件を報道した商業新聞のコピー、「前進」が押収されていることは、被告人が本件自民党本部放火事件に特別の関心を持っていたことを示すものといえるとの証言も、その証言自体から根拠不十分といわざるを得ないし、被告人を本件に結びつけるものとはいえない。

10  「電磁弁、圧力調整器の購入担当者が権力中枢に対する大規模ゲリラ計画を事前に知らされていた。実行部門や武器製造部門以外の役割で関与した者も、その事件の内容を事前に十分知っていた」旨の証言も根拠不十分である。特に、革命軍構成員が関東だけでも約一二〇名おり、それが例えば、「ARI」「HACHI」、「BH」「BS」等のグループに分かれていたが、そのグループの人数、組織編成、相互の関係等は不明であるというのであるから、Q2証言の右指摘は、推測の域を出ないといわなければならない。

11  前記伊藤組倉庫から発見、押収された電磁弁二個、圧力調整器一個が、本件自民党本部放火事件で購入・未使用の電磁弁、圧力調整器であるとする点についても、それが根拠不十分であり、証拠上採用し難いものであることは、Q3証言について指摘したとおりである。

12  被告人が逮捕された際、「チョコレート作成依頼文書」を所持していたこと、偽造車検証はゲリラ実行のために準備されるものであることを理由に、被告人は次期作戦を知らされた上偽造車検証の授受の任務を帯びていた旨推測しているが、偽造車検証が対権力ゲリラだけでなく、対革マル派のいわゆる内ゲバ用の車両に使用されることもあることはQ2証人も認めており、しかも、革命軍内にも幾つかのグループが存在する上、そのグループ間の関係については分からない旨証言しているのであるから、右推測の根拠は薄弱といわなければならない。また、昭和五七年一〇月一二日に革命軍の町田アジトから押収された証拠物、革命軍に所属していたK20のレポートの分析を基にして、革命軍構成員は事前に次期作戦を知らされる旨推測しているが、この点も、前同様の理由により根拠不十分というべきである。

13  被告人所持の暗号文の解読から、被告人は革命軍で統一的に使用されていた暗号を承知して用いていた旨証言しているが、Q1証言からも明らかなように、暗号が年代、グループによって異なる可能性があり、現に革命軍の組織についても、「BH」「BS」、「ARI」「HACHI」と異なる暗号で表されているというのであるから、被告人所持の暗号文が本件自民党本部放火事件当時使用されていた暗号文と同一であるか疑問なしとしない。

14  革命軍構成員である前記K15に対し組織の者が出した手紙を根拠にして、ゲリラの実行部門や武器製造部門でない者も、自己の関与した行為が事件にどのように結びつくかを事前に十分認識している旨証言しているが、前記のとおり革命軍の組織、グループ構成、その人員等が明確でない上、Q2証人が指摘する右手紙の中の「あなたの力によってできた、スキーセット、アイスクリームが大活躍した、結果は御存知のとおり、万歳」の記載も、ゲリラ事件の後に新聞報道等によって事件の結果を知ることもあり得るのであるから、同証人の推測に合理的な根拠を与えるものとはいえない。

以上の点を考慮した上、他の間接証拠(情況証拠)等とも総合して、Q2証言の証明力を判断すべきである。

第九Pの証言(第一〇二回、第一〇五回、第一〇六回)について

一  Pは、平成元年五月五日静岡県清水市内で逮捕した中核派革命軍のK1、同月六日栃木県宇都宮市内で逮捕した中核派革命軍のK20からそれぞれ押収した証拠品を分析して中核派革命軍の実態を調査した警察官であるが、要旨次のとおり証言している。

「平成元年当時、革命軍の中に、対権力ゲリラ、対革マル戦の調査活動等を任務とする「ラワン」という暗号名の一大組織があること、K1はその「ラワン」に所属する「スクリュー」と呼ばれている脈管部隊の責任者であり、K20はその班員であることが判明した。また、脈管が革命軍の一組織であることも分析できている。

「【四】スクリューの再建強化方針」、「【四】スクリューの再建・強化方針(その2)」と題する資料から判明した脈管の具体的任務としては、ゲリラ戦や調査活動のための任務、人間と人間との接触(家族との接触を含めて)、物品の受渡し、車の管理等がある。

「ラワン」の編成、人員については、平成元年一月のものと判明した「(1月)ラワン・グルメ報告」の分析結果により、「ラワン」は一〇班編成、大きい班で三九名、大体三ないし六名で編成されており、全体で約七五名が所属していたことが明らかである。革命軍には、「ラワン」の外に、「チーク」と呼ばれる組織もあったが、具体的資料がないので「チーク」の方の分析はできていない。

被告人が逮捕された昭和六〇年四月当時の革命軍「ARI」の指導者「KR」と平成元年五月当時のラワンの指導者「ISG」とは、「ARI」、「HACHI」と書かれた文書の「KR」の筆跡と「ベーコンについて」という書出しの「ISG」の筆跡が素人目にも似ているので(鑑定でも同一筆跡とされている、という。)、同一人物と思われる。

「ISG」は、自己作成の「【三】スクリューの再建・強化について」という資料の中で、自民党本部放火事件で、被告人、K13の逮捕、指名手配こそ、脈管発足から被告人逮捕に至る「ISG」の指導の結果である、と述べ、革命軍の戦闘の激化、発展の中で、戦闘の直接的担い手として脈管の運転担当のメンバーを投入させたことが脈管を弱体化させた原因であると自己批判していた。「スクリューの再建・強化について」という資料の中に、被告人がスクリュー、つまり脈管のメンバーであったことがはっきり記載されている。

過去に脈管が逮捕された例は、自民党本部放火事件だけでなく、例えば昭和五七年一〇月に町田アジトで四人を逮捕し、同六三年三月にK18ら三名を逮捕し、それぞれ多数の証拠物を押収したこともあったのに、これらの事件にはほとんど触れずに、自民党本部放火事件だけを自己批判の対象としていることに注目して、上記の「ISG」の文書は、被告人の脈管の任務から考えれば自民党本部放火事件に関与させるべきではなかったのに関与させた結果逮捕されてしまい、それが脈管を弱体化させた最大の原因である、と述べていると分析した。

さらに、「【四】スクリューの再建・強化方針(その2)」という文書の中に、自民党本部放火事件に至る過程でのラワン指導部とスクリュー自身の最大の誤りは、スクリューは逮捕されない、スクリューは汚染しても構わないというような徹底的に間違った考え方に陥っていたことであるとの記載があるが、この趣旨につき、被告人は自分は逮捕されるはずがないと思って自民党本部放火事件に脈管として関与したか、警察官や店員に目撃されたため逮捕されてしまった、このことを「ISG」が自己批判していると分析した。

被告人が革命軍の構成員であることは、逮捕時に押収された会計報告書が革命軍の会計報告と様式が一致していたことからも裏付けられる。

K1やK20は、アリバイ工作に使用するため、中核派がゲリラや内ゲバを起こした日付の記載のある領収証を所持していた。

K1から押収の「【四】スクリューの再建・強化方針(その2)」には、スクリューの学習会の必要性と重要性はことあるごとに確認されてきたが、実際には、ゲリラ戦や調査活動のための任務、家族接触その他の接触等の任務、車の管理等の事情によって、学習会の定期的実行は非常に難しいと記載されており、これらの記載からして、脈管の学習会が定期的に行われた事実がないと判断した。

各種暗号、人名、隠語等を分析した結果、コード名につき、被告人は「D31」、K1は「HYK」、K20は「Kg」と判明した。」

二  P証言の証明力

P証人は、Q2証人と同様、自己の調査、分析等に基づくとしながら、中核派革命軍の組織編成、暗号文の解読等について随所に断定的な意見を述べているので、その結論に十分の根拠があるかどうかを慎重に検討しなければならない。P証言の証明力の判断に当たっては、次の点を考慮すべきであろう。

1  P証人の調査分析の資料は、平成元年五月五日静岡県清水市内で逮捕した中核派革命軍のK1、同月六日栃木県宇都宮市内で逮捕した中核派革命軍のK20からそれぞれ押収した証拠品であって、本件自民党本部放火事件から既に四年以上を経過しているから、先に述べたQ1証言から明らかなように、暗号が変化する可能性があることに照らすと、これらの証拠品の分析によって、昭和五九年九月の本件自民党本部放火事件当時の革命軍の組織、構成等を推測することには、自ずから限界があるといわなければならない。

2  「【三】スクリューの再建・強化について」には、「DINNER・SUPPERによって直接弾圧を受けたD31がスクリューメンバーであったという事実は、スクリュー活動とISGのスクリュー指導のあり方がブリキの攻撃によって打ち破られたということである。スクリューメンバーであるD31がその活動とシュラフをブリキによって補足され、摘発されたということは、スクリューに課せられた責務からして深刻な敗北である。DINNER・SUPPERは直接的には、スクリューの活動とISGのスクリュー指導の敗北であった」、「DINNER・SUPPERこそスクリュー体制の発足から、DINNER・SUPPERにいたるスクリュー活動とISGのスクリュー指導のまぎれもない結果である」、「具体的には、ニクロム総体のスコールの激化・発展のなかで、ストーンメンバーをスコールの直接的担い手として投入せざるを得なかったことや、ブリキによるストーンメンバーに対する執拗かつ継続的弾圧攻撃のなかで、ストーンメンバーそのものが減少してきたこと等である。DINNER当時〇名いたスクリューメンバーのうち現在も直接的にスクリュー活動に従事しているメンバーがIzのみであるという事実にこの事が端的に示されている」旨の各記載があり、DINNER・SUPPERが被告人の逮捕、K13の指名手配を意味するから、被告人の脈管活動が本件自民党本部放火事件に関与したこと、すなわち、被告人を自民党本部放火事件に直接的な担い手として投入せざるを得なかったと推測できるとしているが、この指摘がいつの時点のものであるか明らかでない。同文書の前後の記載からすると、弁護人指摘のとおり、昭和五九年の自民党本部放火事件のことを述べているのではなく、昭和六一年から同六三年にかけてのことを指しているようにも考えられる。また、後記のとおり、「DINNER」が被告人の逮捕を指すと理解すると、この文書は被告人逮捕以後の状況を述べているとも解釈できるのである。

P証人は、被告人の逮捕を自民党本部放火事件への関与に短絡的に結びつけているように思われる。

3  「【四】スクリューの再建・強化方針(その2)の中の、「スクリューは任務の性質上、絶えず、汚染する危険に曝されているのであるが、………かって、DINNERに至る過程での、ラワン指導部とスクリュー自身の最大の誤りは、「スクリューはシェルされっこない→スクリューは汚染してもかまわない」という徹底的に間違った考え方に陥っていたことである」との記載は、脈管は逮捕されることはないから公然と顔を曝しても構わないという、徹底的に間違った考えに陥っていたことを反省している趣旨であるから、この点も被告人の自民党本部放火事件への関与を示すものであると指摘しているが、前同様、短絡的な推測であって、根拠のあるものとはいえない。

P証人自身、この点の趣旨につき、裁判官から「自己の行動について、法律的に逮捕される可能性があるかないかを自分で判断して行動したのが間違いだった、むしろもっと慎重にすべきであったと述べているのではないか」と質問され、そのように理解できる旨証言しているのである。

4  革命軍の組織について、一部根拠を挙げて、「ラワン」の班、人員構成について証言しているが、他の組織という「チーク」については解明する資料がなく、しかも昭和六〇年当時存在したという「ARI」「HACHI」と平成元年当時存在したという「ラワン」「チーク」の関係は不明であって、P証言によっても、革命軍の組織については解明されていないのである。

5  学習会が定期的に実行されていなかったという点についても、「【四】スクリューの再建・強化方針(その2)」が昭和六三年ころに作成された文書であるというのであるから、この記載から、昭和五九年の本件当時の学習会の状況を推測することは困難である。

6  暗号文の解読に関して、「DINNER」は自民党本部放火事件を指し、「DINNER・SUPPER」は被告人の逮捕、K13の指名手配を意味するとして、同じ「DINNER」につき解釈が異なるが、この点に合理的な根拠があるのか疑問である。

P証人も、「DINNER」が被告人が逮捕された事件の裁判とも読める旨証言しているのであり、「DINNER」が被告人の逮捕を指しているとみる余地がある。被告人は自民党本部放火事件への関与を否定し、中核派は組織を挙げて被告人を支援しているのであるから、同組織の幹部が、いくら暗号を使用した文書といえども、被告人の自民党本部放火事件への関与を認めるような記載をすること自体不自然といわなければならない。

以上の点を考慮すると、P証言は、被告人が革命軍の構成員であることを推測させるものではあるが、それ以上に被告人と本件自民党本部放火事件とを結びつける点は証明力を持たないといわなければならない。

第一〇結論

前叙のとおり、検察官の立証の順序に従っていわゆる革命軍立証に属する証人の供述内容及びその問題点につき検討してきたが、これらの証言を総合するとき、検察官の主張はどの程度まで認定することが可能であろうか、以下において検討を加える。

一 前記各証言、特にM3、Q2及びPの各証言は、機関紙誌の記載内容、中核派革命軍が敢行した各種事件の捜査結果の分析、革命軍等のアジトの押収証拠物及び革命軍構成員の逮捕時の押収証拠物の分析結果等を基にして、中核派革命軍構成員と認定される特徴点を指摘しているが、被告人が居住していたむつみ荘二〇五号室の状況、同室内及び逮捕時の被告人から押収された証拠物の内容分析等によると、被告人が右の特徴点を充足していることが明らかであるから、被告人が中核派革命軍の構成員であることは認められよう。被告人が昭和六〇年四月二八日逮捕された時、被告人の自筆と思われる「様ARI(Nz、ヘルツ担当)」と記載のある水溶紙の紙片(〈証拠〉)を所持し、被告人方から押収された行動表、行動予定表に「行動表(Nz)」と記載のあるものがあり、その記載等からして、被告人の行動と行動予定表の行動予定が一致していること、接触メモ、ドッキングメモの中の接触の当事者の記載には「Nz」の記載が多数あったことからすると、昭和六〇年四月当時被告人は中核派革命軍の一組織である「ARI」の中で「Nz」の暗号名で行動していたと認められることも、本件当時被告人が中核派革命軍の構成員であったことを推認させるものといえる。

検察官は、被告人が革命軍組織の中でも極めて重要な組織である中核派革命軍脈管の一員であったことに疑いを差し挟む余地はないと主張する。

しかし、前記各証言、特にM3及びQ2の各証言に照らすと、中核派革命軍脈管の存在は認められるとしても、その役割、脈管と認めるための特徴点、ひいては被告人を脈管と認めた根拠がいま一つ明確でない。Q2証言は、革命軍脈管と認められる特徴点として、ドッキングメモを所持すること、非公然車両を管理・運転すること、ドッキングに使用するための喫茶店等の基礎的調査資料を多数所持すること、発行者欄を破り取った領収証を所持すること等を挙げているが、これらの特徴点を指摘する根拠が十分でない。本件においては、もとより脈管の特徴点を直接認めるに足りる証拠はなく、Q2証言も、脈管と認めたK18等を例に挙げ同人等が担当していた任務を基にして証言するところが多いが、同人等を脈管と認める根拠自体を十分指摘しているとはいえない。例えば、Q2証言が指摘する脈管の特徴点としての、非公然車両の管理・運転、不審車両の厳重なチェックについても、同証人は、弁護人の反対尋問において、これらが脈管固有の任務でないことを認めているのである。P証言が指摘する平成元年五月五日逮捕にかかる中核派革命軍K1から押収した文書についても、押収の時期及びその文書の内容等からして、本件当時被告人が中核派革命軍脈管であったことを推認させるに足りない。

以上の点に照らすと、被告人が本件当時中核派革命軍脈管であったとの検察官の主張は十分立証されていないといわなければならない。

二 前記認定のとおり被告人が中核派革命軍構成員であるとして、被告人は検察官主張のように革命軍の組織編成・構成員の動静等を知り得る枢要な地位にあったといえるであろうか。

弁護人指摘のとおり、「枢要な地位」という場合、どれだけの規模の、どの集団におけるどの地位を指すのかの特定がなければ、その地位が負う責任も役割も明らかにはなり得ない。

前記各証言によっても、革命軍の組織編成等については不明な点が多い。M3証言が指摘するように、革命軍内部には、武器の研究、開発、製造等を担当する部門、資材調達部門、攻撃対象等の調査部門、対権力ゲリラや対革マル戦の実行部門、脈管が存在するとしても、これらの規模、相互の関係等は明らかでない。機関紙誌類には、革命軍は革共同中央あるいは中央軍事委員会の指導を受けると記載されているというが、一つのゲリラを計画する場合、革共同中央あるいは中央軍事委員会が計画を立案し革命軍に指示するのか、革命軍の構成員が相互に他の構成員の任務を知っているのか等についても不明である。

検察官は、革命軍内の各部門が、革命軍上部の指揮・指導の下に有機的に連結し、右上部及び革命軍脈管を通じて連係が保たれて組織が一体となって対権力ゲリラ、革マル派に対する内ゲバ事件を敢行していた旨主張するが、これも一つの可能性を指摘するものであるとはいえ、未だ証拠上の十分な裏付けを伴った主張とは認め難いのである。

また、前記各証言によると、革命軍の規模については昭和六〇年当時関東で約一二〇名とされ、昭和五七年当時に「BH」「BS」、同六〇年当時に「ARI」「HACHI」、平成元年当時に「ラワン」「チーク」という組織が存在したというのであり、本件当時においても幾つかの組織が存在したと推認できるが、各組織の編成、規模、相互の関係等はもとより、それら以外に別の組織がなかったかどうかも不明であり、さらに革命軍において使用される暗号の変更の可能性を考慮に入れると、その不透明度は増すのである。

以上の点に照らすと、被告人が革命軍の組織編成・構成員の動静等を知り得る枢要な地位にあったという検察官の主張は証明されていないといわざるを得ない。

三 次に、検察官は、被告人が自民党本部に対する火炎放射ゲリラの敢行につき事前に犯行計画の全貌を知った上で犯行に加担した旨主張する。

しかし、検察官主張の前提をなす、被告人が中核派革命軍脈管であること及び被告人が本件放火犯人の逃走用車両に乗車していたことが証拠上認定し難いことは、既に述べたとおりであり、また、検察官の指摘する機関紙「前進」を見ても、本件自民党本部放火事件を予測させるような記事はないし、中核派革命軍の構成員が火炎放射装置の部品となり得る電磁弁を購入するということは、その購入者が事前に火炎放射ゲリラ計画を知った上火炎放射装置に使用する意図で購入したことを示す旨のQ2及びQ3の各証言が十分の根拠を持たず、未だ推測の域を出ないことは、その各証言の問題点として既に指摘したとおりである。

したがって、検察官の右主張も証明されていないというべきである。

四 さらに、検察官は、被告人が本件犯行を含め中核派の闘争に深い係わりを有していたことを示す証拠として、アジトにおける被告人の所持品等の存在を指摘する。

しかし、被告人がむつみ荘二〇五号室に無線受信機、本件自民党本部放火事件を報じた機関紙「前進」及び朝日新聞等のコピーを隠匿・保管していたことが、直ちに被告人の本件犯行への関与を示すものでないことは多言を要しないであろう。

また、被告人が逮捕時に所持していた「チョコレート作成依頼文書」(〈証拠〉)についてみると、この文書は「676様」宛の「KR」からの書簡であり、被告人の暗号名(コードネーム)が「Nz」とすると、被告人が作成した文書ではない。また、Q2証言によると、偽造車検証は対権力ゲリラだけでなく、対革マル派とのいわゆる内ゲバ用にも使用されるというのであって、本件審理においては偽造車検証が対権力ゲリラのみに使用されるとの証明はされていない。そして、足立ナンバーの車両が都内に限らず全国で走行している事実にも照らすと、検察官主張のように、被告人が「都内における対権力ゲリラの次期作戦を知らされ」ひいては「本件自民党本部放火事件についても事前に犯行計画を知らされ」ていたと推定することは、推測に推測を重ねるものであり、十分な証拠上の根拠に基づかない主張というほかない。

五 以上説示したとおり、被告人の犯意及び共謀に関する検察官の革命軍立証は成功しておらず、検察官主張のように、被告人が本件自民党本部放火事件につき、事前に犯行計画の全貌を知った上でこれに関与したとの証明はできていないと結論づけざるを得ない。

一〇 被告人の行為と刑事責任

第一共謀共同正犯の成否

一 検察官は、論告において、被告人につき現住建造物等放火及び道路運送車両法違反の共謀共同正犯が成立する旨主張する。

しかし、検察官は、本件審理を通じて、公訴事実第一の現住建造物等放火について、共謀者の一名がK13であるとする以外には、共謀の日時、場所、態様及びK13以外の共謀者について格別主張、立証していない。おそらく、右共謀は本件自民党本部放火事件の実行された時までに中核派革命軍の構成員との間に成立していたと主張する趣旨と思われる。

二 共謀共同正犯が成立するためには、二人以上の者が特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互いに他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よって犯罪を実行した事実が存在しなければならない。共謀の判示は、謀議の行われた日時、場所又はその内容の詳細についてまで、いちいち具体的に判示することを要しないから、検察官においても、右のような点まで具体的に主張、立証する必要はなく、犯罪実行の時までに共謀が成立していたことを立証すれば足りるが、前記のような内容の謀議の存在を証拠によって合理的な疑いを容れない程度にまで証明する必要があることはいうまでもない。

そして、右共謀の存在及び共謀への加担の立証に関しては、黙秘等のため加担の本人及び共犯者の自白等の直接証拠が全くない場合でも、実行行為及びこれと密接に関連する行為との係わり、又はそれが組織的犯行である場合にはその組織における地位・役割等を、他の供述証拠や非供述証拠を含む情況証拠等により立証し、前記内容の共謀の存在等を推認させることは可能であろう。

三 右の見地から本件を検討すると、既に述べたとおり、検察官の主張事実のうち、被告人が中核派革命軍に所属し、本件自民党本部放火事件の前の昭和五九年八月一日にシーケーディ東京販売株式会社蒲田営業所おいて電磁弁一〇個を購入したことは認められるが、被告人が中核派革命軍の中枢部門に属する脈管の地位にあったこと、偽造ナンバープレートを着装した逃走用車両助手席に乗って放火実行犯人の撤収のために犯行現場付近に赴いたこと、被告人の購入した右電磁弁が本件犯行に使用された時限式火炎放射装置の部品として使用されたこと、右電磁弁購入の際被告人が本件自民党本部放火の犯行計画の全貌を知っていたことについては、いずれも証明不十分といわざるを得ず、しかも、本件自民党本部放火が中核派革命軍に所属する者らによる犯行であるとしても、そのいかなる組織、構成員らが実行したものであるか、被告人が右組織、構成員らといかなる係わりを持ち、いかなる役割を果たしたものであるかは立証されていないのであり、したがって、被告人につき本件現住建造物等放火及び道路運送車両法違反の共謀共同正犯が成立する旨の検察官の主張については、その証明がないといわなければならない。

第二幇助犯の成否

一  前叙のとおり、被告人の購入にかかる電磁弁一〇個が本件犯行に使用された時限式火炎放射装置の部品として使用されたことは証拠上認め難いとしても、時限式火炎放射装置製造の材料(部品)となり得る右の電磁弁の購入行為自体が本件放火実行犯人(共謀共同正犯を含む。)に対する犯意の強化の意味で無形的幇助(精神的幇助)となる余地がないわけではないので、この点について検討する。

二  幇助犯が成立するためには、正犯者の犯罪実行を容易にする幇助行為とともに、幇助の故意、すなわち、正犯者の実行行為を表象するとともに、自己の行為が、その実行を容易にするものであることを表象・認容することが必要である。

しかるに、本件においては、検察官の全立証によっても、被告人の購入にかかる電磁弁一〇個が本件自民党本部放火事件に使用された時限式火炎放射装置の製造のための材料(部品)として準備されたことや、被告人が本件放火実行犯人の実行行為を表象するとともに、自己の電磁弁購入行為が、右犯罪実行を容易にするものであることを表象・認容していたことが合理的な疑いを容れない程度まで証明されているとはいえないから、本件現住建造物等放火についての幇助犯の成立も認められないといわなけばならない。

第三結論

以上説示したとおり、本件公訴事実についてはいずれも犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

(裁判長裁判官高橋省吾 裁判官伊藤納 裁判官堀田眞哉)

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